先日るろ剣の話をして以来、小学生以来に再熱し、ネットフリックスで追憶編を見た。
追憶編は、剣心のアニメ本編とは別に、剣心の過去の物語であり、剣心という人格がつくられる根幹になる。
なぜ人斬りになり、なぜ殺さずの誓いを立てたのか、剣心の象徴である左頬の十字傷は何を意味するのか、これらの謎が明らかになる、るろ剣ファンにはたまらない物語だ。
ただその物語はあまりにも切ないものだった。今日は感じたことを綴っておきたい。
CONTENTS
ストーリー(ネタバレ)
剣心は、いつものように、命じられた相手を殺していたが、ある日、標的の男清里を殺すが、死ぬ直前に頬に一文字の傷をつけられる。
清里の生の執着から、傷は呪いのように残り、事あるごとに出血し剣心を苦しめる。
人を殺すことで時代が変わると思っていたが、そうではないことを深く理解し始め、剣心の精神は不安定になっていた。
そんな中、剣心は、辻斬りの現場でヒロイン雪代巴(ゆきしろともえ)と出会う。
幕臣達から狙われてる剣心は、巴と夫婦を装い大津にて隠居生活をすることになる。
しばらく人を殺すことなく穏やかな生活を巴と送ることで、剣心と巴は互いに惹かれ合い、幸せな生活を送る。
しかし、実は剣心の頬に一文字の傷をつけた男清里は、巴の婚約者であった。
物語の終盤。巴は清里の仲間たちに呼ばれ、剣心のもとを離れる。このとき初めて剣心は巴の日記を読み、巴の婚約者を自分が殺めたことを知った。
巴の心情を知った剣心は巴を探しにいく。
これを目論んだ清里の仲間たちが、精神的に弱りかけた剣心を容赦なく襲いかかる。刺客たちの死闘の最後、巴は剣心をかばって死んでしまう。
巴は最後に、剣心の頬を切りつけ、「ごめんなさい、あなた」と言い残して息が絶える。(清里からの傷と巴からの傷によって十文字となる)
剣心は、自分が巴の運命を狂わせたにも関わらず、自分を愛してくれた巴の愛と、これまで多くの人を死なせてしまったことで、自らの罪を悟り、殺さずを誓う。
巴の心情〜自分を見失わぬ悲しみ〜
巴の心情はどのようなものだったのだろうか。
婚約者を殺した相手、殺してやりたいほど憎んだ相手を愛せるだろうか。
もちろん巴もいきなり剣心を愛せたわけではない。
むしろ、最初は復讐のために近づくが、寝るときでさえ刀をもつ剣心に隙がなく、自らの力では殺したくても殺せないものだった。
そんな意思に反して剣心と長く過ごし、大津での隠居生活では夫婦を装い共に生活することで、剣心の実存に触れていく。
そこには、ただの人殺しではない、剣心の心の底にある純粋さに触れることになる。
孤独に育ち、殺人でしか生きることができず、寝るときですら、刀を抱いていなくては眠れぬ剣心の状態を汲み取り、慈しむようになっていった。
私たちは巴のようにできるだろうか。
剣心には剣心なりの正義があった。それを頭では理解しても心が追いつくだろうか。
自分を横において、共感的理解だ、視点取得(perspective taking)だといっているが、自分と利害関係がないから自分を横におけるわけであって、自分と利害関係があればあるほど難しくなる。
怒り、憎しみを消すことなどできない。
だが、巴をみていて思うのは、その感情に自分が飲み込まれないでいたいと思う。
他者への理解の前に、まずは自分が怒る自分を、憎む自分を、悲しむ自分を理解せねばならない。
悲しみはすぐに癒えるものではない。憎しみもすぐに薄まるものではない。
だが、そのような自分がいることを観察できる自己をもつ(自己を客体化する)ことはできる。
そのために、巴におっては、日記は大きな存在だったと思う。
アンネフランクが日記によって自己の精神を保ったように、巴にとっても日記は大きかったのではないだろうか。
今の時代と違って、誰かに話を聴いてもらえるわけではない。
剣心を憎む気持ちと慈しむ気持ちを、日記を通じて客体化せずには整理ができなかっただろう。
そうやって、自己の感情を抑圧することもなく、自己が感情に同一化されることもなく、悲しみに自分を見失ずに、他者への理解と慈愛を自己の中に共存させていったように思う。
頬の十字傷に込められた意味
息を引き取る前に、剣心につけた傷。
巴にとって、剣心にとってどのような意味があったのだろうか。
最後の力を振り絞ってつけた傷をつけ終わった後の巴の表情は、少し安堵があった表情だった。
巴は剣心に生きてほしかった。だから庇いに行った。
自らの婚約者を殺され、それでも自分を愛してくれた人を、自分が殺めせてしまった。剣心の心に負う傷と罪を、巴は理解して、それを楽にさせてあげたかったように思う。
十字架を背負うことなく、生きて欲しい。
剣心が抱く罪悪感を、頬に傷をつけるという罰を与えることで終わりにしたかった。
清里の呪いや私の憎しみにも、終止符をつけるという意味でも、傷を重ねることで解放させてあげたかった。
傷をつけた巴の安堵した表情は、そういう思いがあったように思う。
それによって、剣心にとっては、「自分が生かされた意味」をもつようになる。
剣心の人格形成
さて、この物語はいろんな解釈や意味を与えてくれる。
インテグラル理論、心理学の観点でいえば、今回のストーリーをみて、剣心はかなり大きなシャドーを抱えて生きているように思う。
まず驚いたのは、シーンの冒頭、剣心がまだ5歳くらいだろうか。身寄りもいなく、目の前で多くの人が殺され、自分をかばってくれる人さえ殺される中、何ら感情が動いていない。
悲しみや怒りを消すことで、精神を保っていたのかもしれない。
しかし、この抑圧された感情は無意識の中で(シャドーとして)、剣心の心の底で、その後の剣心を苦しめ続けたように思う。
幼少期にこれほどまでの体験を積んでいて、今の剣心があるのは、比古清十郎の存在があまりに大きいように思う。
比古清十郎は、そのセリフ1つ1つをみるに、発達段階は明らかに高い。この時代に関わらず、最低でもグリーンはある。
比古清十郎からの愛情は、幼い剣心の人格形成にとっては大きかっただろうし、ただ剣術を教えるのみならず、倫理や精神もの鍛錬もつませたことを垣間見える。
経験ほど尊いものはない
剣心の人生を見ていると、経験することの尊さをしみじみ感じる。
頭ではわかっていても、身を持って、心を伴ってわかることは次元が異なる。
剣心は、飛天御剣流を使って人を守る、人を救いたかったわけだが、比古清十郎に次のように言われて止められる。
「剣は凶器、剣術は殺人術。どんなきれいごとやお題目をいってもそれが真実。
人を守るために人を切る。人を生かすために人を切る。これが剣術の真の理。
俺はお前を助けたときのように、何百人もの悪党を切リ殺してきた。
が、奴らもまた人間。この荒んだ時代の中で精一杯生きようとしていたに過ぎん。この山を一歩でれば、待っているのは各々の相容れない正義に突き動かされた飽くことない殺し合いに、それに身を投じれば、御剣流はお前を大量殺人者にしてしまうだろう。」
剣心自身も、人を殺す経験を通じて、このことを深く理解していくことになった。
巴が愛する人を失う気持ちも、剣心自身が愛する巴を失って初めてその気持ちがわかるようになった。
経験せねば、真の意味で理解することなどできぬことを教えてくれているように思う。
また、発達という観点では、自らがいかに異なる世界観のものを体験していけるかが重要だが、剣心は、剣術でしか生き方を知らぬ中、隠居生活という体験も、剣心自身を大きく変容させたように思う。
大根を育てて食す、巴をゆっくり暮らす、その暮らしは殺人を客観視する時間となり、剣心に内省の機会をつくったとともに、巴という人の温かみに触れるものになった。
異なる経験が人の変容をつくることを物語ってくれている。
剣心にとっての巴の存在
剣心は、比古清十郎から離れる際に、人を殺すことで次の時代を作るために出ていったわけだが、殺すことでは作れないことを気づき始め、実存的空虚感を抱えている時期であった。
ここに、愛する巴を自らが殺めてしまう。
最後に、最も苦しく切なく泣ける、剣心が亡き巴に語りかける言葉を残したい。
「巴、君を失ってやっと君の苦しみがわかったような気がするよ。
君はこんな思いにずっと耐えていたんだね。辛かっただろう。悪かっただろう。なのに君は俺を守ってくれた。こんな俺を生かしてくれた。でも君はもう辛い思いをしなくていいんだよね。苦しまなくていいんだよね。
俺は、この苦しみを背負ったまま生きて、償いの道を探さなければならないんだ。俺を守って死んでいった人と、俺が殺めた命に報いるために。辛いけど、多分大丈夫だと思う。
今までもそうだったし、君が教えてくれた人のぬくもりの温かさを覚えていられるのなら、多分俺は。君とはお別れしなきゃならなけど、今は、今だけは・・・このまま。二人一緒に・・・巴」
巴の死によって、剣心自身の心は傷つき罪悪感を抱くことはたしかにあるのだが、それ以上に、巴の愛によって治癒と生かされた意味をもつようになる。
実存的空虚感の中、巴という存在がもたらした愛と死は、剣心自身を発達させた。
もちろん、次の時代へのやり方はわからない。
自分には剣術しかない。
それでも、自分が引き受けるべき使命・責務があり、山にこもるでもなく、この市井の中で、逆刃刀という殺さずの誓いを胸に、剣術で次の時代を作ろうとした。
この剣心と巴の生き様は、今の私たちにとっても変わらず、大切なことを教えてくれるものに思った。
2021年4月13日の日記より
2021年4月14日