時刻は、23時20分。
今日も一日を終えようとしている。
今日は、姉の話から「子育て」というものの奥深さを感じていた。
先週くらいだろうか、小学3年生になる姉の子どもWくんが、兄の家に遊びに行った際、おもちゃの多さに驚いたらしい。
兄(Wくんからみると叔父)「このおもちゃみんな、ばあばに買ってもらったやつやで」
Wくん「僕もばあばに買ってもらう!」
Wくんパパ「うちのばあばはそんな裕福じゃないから買えないの」
Wくん「・・・」
それを聴いたうちの母(Wくんからするとばあば)が、Wくんの誕生日が近いこともあり、おもちゃを買ってあげることになった。笑
母は、自分の子どもたちにもっと買ってあげたかったと思っているようで、今になって孫に買ってあげられるのが喜びらしい。
(実際、買ってあげる母も大喜びしていた。)
Wくんは長年我慢していた念願のニンテンドースイッチを手に入れることになり、大喜び。「え!こんなに高いのいいの?」と何でも伺いながら。
そして、日は変わり、つい先日、姉がストレスによって円形脱毛症になっていることに、Wくんは気がついた。
それに驚き、これは大変だと思ったWくんは、
「お母さんももうすぐ誕生日やろう?好きなの買ったほうがいいよ」と言ったらしい。
姉は嬉しかったらしい。
それほどWくんにとって、ニンテンドースイッチが嬉しかったことを感じていることもあるが、それに以上に、お母さんへの思いやりが出ていて、姉も気が楽になったらしい。
先日、無条件に愛されているのは子どもじゃなくて親だった、という言葉をみたが、今日の姉をみるとそう感じる。
私自身は子どもがいないが、自分が子育てするなら、理想をいえばそういう目でみたいし、そう思いたいなと思う。
それは子育てといわず、すべてのことにgiveもtakeも包含されているものだと、そう思いたい。
2021年10月3日の日記より