時刻は23時。
今日も一日を終えようとしている。
一日を振り返ると、感情の変化は本当に豊かである。
今朝は、畑へでかけ、まだ残っているサツマイモ掘りをした。
そこでの癒やしや喜びがある一方、今は怖さを感じている。
ときおり来るのだが、私は成長することを希求し過ぎてしまっているのではないかと、怖さを感じることがある。
それは成長することにも負の側面があるし、あるいは、成長を手放すことがときに成長をもたらす逆説もあり、とても奥深いことを感じているからである。
その前に、今成長という言葉を使ったが、成長や成熟や発達、このあたりを一度整理するところから、今の自分の心境に引き戻していきたい。
CONTENTS
成長・成熟・発達の定義1
これらの定義は人それぞれことなる。
先日、加藤さんと規夫さんからは、成長(growth)と発達(development)の違いについてこんなことを言っていた。
生物学者が言っていたのは、量的な成長がgrowth。
一方、新たな秩序が形成されるがdevelopment。(質的な変化)
私の中では、成熟という言葉をここでさらに活用したい。
つまり、量的な変化を成長、質的な変化を成熟、そしてその両方を含んで発達と定義してみたい。
冒頭述べたように、ある種成長すること自体を手放す、足るを知ることやありのままの自己を受容しようことで結果的に成長が起こる。
これはある種、成長するというパラダイムを抜け出すという点から質的な変化に思い、私はこれを成熟と当てたい。
成熟は、道元の「正法眼蔵」に
「身命をかへりみず聞法するがごときは、その聞法成熟するなり」
とあるよう、機が十分熟すること。転じて、悟りの機が実ることを意味する。
成長・成熟・発達の定義2
または、とある力が磨かれていくことを成長とし、それが一定の高いレベルに達することを成熟と呼ぶこともできるかもしれない。
まさに実が熟すように。
そして、発達というのは、生物でいう進化であり、とある植物が実が熟し、種ができ、新たな木からまた実ができる際に、全く色や形が異なる実ができ、ノンリニアな変化、創造性が生まれることを発達と呼ぶこともできるかもしれない。
成長・成熟・発達の定義3
あるいは、何らかの領域における単一的なものを成長と呼び、様々な成長が密接に関わり合い、複合してマクロな変化を成熟や発達と呼ぶこともできるかもしれない。
豊かな意味付け
今思いつくことを書いただけではあるが、まだまだ色んなことが言えるだろう。
こういった定義をして何になるのだろうか。
そんな声が聞こえてくるが、このように成長や発達の意味づけを豊かにすることが大切に思う。
それは、私たちはできないことができるようになることで喜びを感じ、成長を希求する生き物であり、成長することを善と捉え、成長しないことに何か恐れを感じる場合もある。
老いや衰えや病というものがまさにそうである。
しかし、単に、単一的な力の獲得が成長ではなく、逆に何か退化していくことによって育まれる力や境地があり、それも含めて老いや衰えや病が成熟や発達を促すものと捉えることができる。
成長することの恐れ1
さて、そんなことを書きながら、私が成長に駆られる恐れに戻したい。
たとえば、今日でいえば、明後日にある加藤さんと規夫さんの発達理論の講座に向けて、こんな本も読んでおきたい、こんな論点も押さえた上で迎えたい、そんな衝動に駆られる。
それ自体はとても良いことであるのだが、何を恐れているのかというと、なんだろうか。
うまく言えるかわからないが、書きながら整理していきたい。
1つは、他がおろそかになることであろう。
実生活では今日も2つのセッションがあったわけであるし、食事、睡眠、様々なことがあるにも関わらず、発達理論の理解を深めることにのめり込んでいき、それらがおろそかになる。
あるいは1つ1つのことに全身全霊で向き合いたいのに、何か集中できない状態になる。
書きながらこれは、成長というより、さらに抽象化すれば欲といえるかもしれない。
成長したいという1つの欲に駆り立てられることによって、何かバランスをかいてしまうことを恐れている。
社会が経済成長を求めるがゆえに失ったものがあるように、私の人生も何かバランスをかくような、そういったことを避けたいと思っている。
かつての自分が、社会的な承認に駆られ、ビジネスの中でスケールやインパクトを出すという単一的な生き方ゆえに結果苦しんだことも大きい。
それには、この熱から一度冷静になって冷めさせる、立ち止まることを大事にしたい。
このジャーナルがまさにそのためでもある。
成長することの恐れ2
もう1つは、上記に関連するのだが、それが目的化してしまうこと。
成長という情熱が盲目的にさせることによって、バランスをかくだけでなく、それ自体が目的化されてしまう。
たしかに知的好奇心を満たすこと自体がある種の目的と言えるのだが、その成長を通じて何を起こそうとしているのか。
これを見失いたくない。
発達理論を学ぶ目的は、一昨日も書いたように、
ポスト資本主義に向けて、内的変容という切り口から外的変容を促す役割を社会の中で担うこと
抽象度が高いものだが、こうみれば1つ1つの仕事や食事や睡眠や家族の時間も、何より大事な営みであるわけだ。
こうやって目的に立ち戻れば、バランスをかくことからも解放される。
成長することの恐れ3
3つ目は、足るを知るということから離れていく感覚がある。
ちょっと整理できていないままに書いているので、1つ目、2つ目と関連して、もはや3つ目といえるのかわからないが、たしかにこういった感覚がある。
成長はきりがない。欲もきりがない。
何かを達成すれば、また次の高次の何かを求め、いつまでたっても満たされぬ状態は続く。
乾いているのか、潤っているのか、自分の認知次第である。
完全か不完全か、それもどのような物語において認知するのか。
スピノザ曰く、完全も不完全もない。善も悪もない。
それをどのように意味づけているのか。
たとえ何らかの社会文脈に飲み込まれ、自分が至らぬと思うことがあろうが、それも単一的なものであり、何かを意識すれば何かはこぼれ落ちる。
なるべくそのこぼれ落ちたものを拾っては、意味付けを豊かにし、完全であると思っていたい。
それが何らかの文脈において、小さな完全から大きな完全へ変わるだけである。
宿命付けられた生き物として
こういって健全に健全にと思って書いているが、とはいえどこまでいっても成長したい欲は消えない。
ロジャーズは、「有機的生命の実現傾向」といい、生物界でも物質界でも複雑性が増すように、進化することが宿命付けられている。
それ自体に善悪、幸不幸はなく、人間の意味づけによるものだが、その意味づけからも逃れぬことはできない。
そうなのであるならば、空海が「大欲清浄」というように、大いなる欲をもって清らかに生きようではないか。
そしてそれが絶えず絶えず、健全さを保ち、なるべく豊かな知性と、生きとし生けるものと繋がった感覚を持ち合わせながら。
そんなことを思う。
2021年11月3日の日記より