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日記「あじわい」

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がんを通じて、死を感じる友といて#425

グロービスで一緒に学んでいた友人が月1回、セッションを受けに、わざわざ、我が家に来てくださる。

今回はいつもと面持ちが違った。

がんの可能性が出てきて、これまでないほど、死を間近に感じていたのだ。

表層意識では、それを考えないようにしつつも、深層意識では、そのことで充満しているかのようだった。

そして、彼はこれまで悩んでいたことは、どうでもよくなったという。

いやもちろん、どうでもいいことではないのだが、確実に景色が変わっている。

それほどまでに、ある意味において、死はすべてを奪い去る。

この逃れられない事実を目の当たりにすると、人は実存的危機に陥る。

こういう時、私はたいてい、セッションをやめて、自然を感じられるところで、雑談をはじめる。

しかし、今回の件は、私にとっても衝撃は大きい。

死というものは、これほどまでに頭ではわかっても、体感として感じにくいものはないように思う。

今回のことを通じて、いくつか湧き起こったことを残しておきたい。

残すプロセスを通じて、少しでもいいから死と膝を突き合わせたい。

死が何かに覆い尽くされてしまった現代

思えば、現代というのは、いかに生きるかだけを考えるようになってしまった。

死というものが、何かに覆い尽くされてしまったかのごとく。

本来、生と死は分つことのできぬものにあるにも関わらず。

それゆえ、死というものが実に多次元的、多義的であるにも関わらず、どんどん短絡的、単一的な捉え方になってしまい、より恐ろしいものとして遠ざけられてゆく。

私たちは常に死と隣り合わせでいる。

今はコロナ危機と言われるが、本当の危機というのは、死を忘却していることではないだろうか。

自分として・・・

今日ふと、たまたま手に取った、リルケの「マルテの手記」には、冒頭、このような文章から始まる。

人々は生きるためにこの都会へ集まって来るらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ。

リルケ「マルテの手記」大山定一訳

なんと深い文章なんだろうか。

ここでいう死は、自分として生きることではなく、誰かのように生きていくことだろう。

私たちは、生まれてから大人になるにつれ、さまざまな価値観や世界観を内面化してきた。

社会に、文明に、時代に適応するかのごとく。

しかし、死はある意味においてすべてを奪い去る。

その時、人は初めて、一人の人間として、生を預かり、生まれて死んでいくということがどういうことなのかを考えることになる。

これまで内面化してきたものをすべて剥ぎ落とされて、真の意味で裸になったとき、人ははじめて自分と出会う。

私は、彼との対話のあと、帰り際、1つの詩集を贈った。

私が大切に愛読し続けた、若松英輔さんの「美しいとき」。

彼は、翌朝、彼自身の日記と、「美しいとき」に載っている3つの詩を、私に共有してくれた。

その3つの詩は、このような詩だ。

私がわたしに出会う旅

私がわたしに出会う旅

私は わたしに
生まれたのだから
必死になって わたしに
ならなくてはならない

尊敬する人を
まねるのでもなく
うらやむ人と
比べるのでもなく

わたしだけが
生きられる
毎日を 世に
刻まなくてはならない

わたしだけが
見つめられる
今という 瞬間を
生き切らねばならない

その人が
ただその人として
そこにいる

なんと素晴らしく
なんと美しいことだろう
そして

こんなに素樸(そぼく)なことが
どうして これほど
難しいのだろう

若松英輔「詩集 美しいとき」

まぼろし

まぼろし

秀でた者でありたいと
少しばかり道を
歩いてはみたが
たどりついたのは
おのれを
見失った者たちの
たまり場だった

世に
同じ人など
いるはずもなく
人間の本性は
誰とも
比べようがない

これほど
単純なことを
知るのに
ずいぶんと
長い道を
歩かねばならなかった

たとえ どんなに
大きな成果が
約束されているとしても
数の世界に
いのちを
明け渡してはならない

そこでは 誰かが
いつも
おまえと 誰かを
比較する
人間の価値を
量化する

探し出さなくては
ならないのは
誰にも
比較できない
ただ一つの
「わたし」の幸福

成功という幻惑のために
どうして
世に一つしかない
おまえのいのちを
差し出さなくては
ならないのか

若松英輔「詩集 美しいとき」

祈願

祈願

多くの人と
知り合うより
出会うべき
ひとりの人に
めぐりあえますように

たくさんの
ではなく
ほんとうに
なくてはならないものを
愛(いつく)しめますように

大きなことを
成し遂げるよりも
なすべき 何かに
わが身を賭すことが
できますように

きらびやかな
文章ではなく
人生の一語を
自分の手で
つむぎだせますように

わたし自身よりも
わたしに
近いところにいる
見えないあなたに
届きますように

若松英輔「詩集 美しいとき」

いのちの秘儀

私も、いい年齢にして、いまだ死を忘却する愚か者である。

現代文明は、絶えず、わたしたちを幻の世界に包み込む。
一人の価値を量化しよう量化しようと押し付けて来る。

それに飲み込まれてはならない。

あなたがどう生きるべきなのか、わたしもわかりたいと思うが、わたしにはわからない。わかるはずがない。

自分の生の意味は、自分以外、誰も解き明かすことができない。

いや、どうだろうか。

より厳粛にいのちを見つめてみれば、自分にさえもわからぬほどに、大きなものがこの世に広がっているようにさえ思える。

死は、新生の証なのだから。

ひとりの友として、ひとりの人間として、

どうか、どうか、このいのちを生き抜いていこう。

2022年8月1日の日記より

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