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日記「あじわい」

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今日は、インテグラル理論に関する対話会で、本当に楽しい時間だった。

会の中で私の頭によぎったことを、ここに吐き出してみたい。

今回のテーマは、インテグラル理論というあまりにも奥深いものとあって、私の中に浮かぶ疑問はいつも以上に多かった。

疑問自体が多くに分解できることも同時に考えていた。

そして、そのうちのいくつかを自分で、質問なり意見なり発言するのだが、自分で発言しながら同時に色々思うところがあった。この質問の仕方では、自分のもっている疑問のごく一部しか表現できていない。
この意見では、質問のごく一部にしか答えきれていない。

ただ、いちいちそんなことを考えていては対話ができないし、その感じたことを出していきながら整理されていくし、整理するための対話でもいいわけでもある。

それに、自分の発言を出すことで、他者が多様に解釈をして別のものが生まれ、対話自体が創発的な営みで楽しい。

とはいえ、ここで改めて自分の頭の中を整理するために、知について整理しておきたい。

知の定義

そもそも知とはなにか、その定義がいるのだが、知というといの一番に頭によぎるのはソクラテス。

ソクラテスの言葉をプラトンを通じてお借りすると、以下のように述べている。

私たちの日常では、なんとなくそう思ったり、それなりの確信があったりする時にも、「知っている」という認定をすることがある。しかし、厳密に言えば、「知る」とは、明確な根拠をもって真理を把握しているあり方を指し、「知っている者」は、その内容や原因を体系的に説明できなければならない。

知をここまで深い定義としてしまうと、他者との対話に支障を及ぼす可能性が高いので、あくまで自分の中の「知」そのものへの探求のために、整理していきたい。

「無知→不知」の歓び

ソクラテスは、「知る」と「思う」を明確に区別している。

私たちがよく使う「知る」は、真理を把握しておらず説明できなければ「思う」に該当する。

ゆえに、ソクラテスは「知らないと思っている」という表現をしている。

これを整理するために、不知と無知を区分して整理したい。

「自分が知らないこと」を自覚していない状態を「無知」と呼ぶ。
ここから、「自分が知らないこと」を自覚する。ソクラテスでいう知らないと思っている状態であり、これを「不知」と呼ぶ。

そして、不知から知へと変わる。

無知→不知→知

こういう整理ができる。

平たく言うと、何が知らないのかを自覚するところからスタートして、
その後に、その知らない対象を知ろうとする動きが出る。

ここで思う。
普段我々は「不知→知」ばかりに目がいくが、この構造を改めて書いてみると、「無知→不知」も非常に尊いといえる。

むしろ、「無知→不知」についても、「不知→知」で感じる歓びと同様、
いや時にそれ以上の歓びを感じる。

「知らない」は、一定の知のなかで成立する

さらに、「無知→不知」という営みは実は深い物があると思う。
ここをもう少し考えたい。

「無知→不知」の営みの中は、どこの点において不知なのか、という特定が重要になる。

たとえば、私がインテグラル理論を探求していることを間近で見ている友人は、インテグラル理論がわからなくても、それが学問であることはわかっている。

別の友人は、それが学問の中でも発達領域を扱っていることをわかっている。
また別の友人は、インテグラル理論とティール組織が何かしら関わっていることをわかっている。

ある対象について、性質なのか、目的なのか、何か別の対象との関係なのか、など、どの次元で不知としているかは多様であり、ここに不知の輪郭をどれほど広げていけるかもあって、不知を深く捉えていくには、一定の知を必要としている。

知の闇

一方、ここでの知の闇の側面についても触れておきたい。

何か「知」というと光の側面のみがあるように思うが、闇の側面もあると思う。

そもそも知の定義にもどると、何をもって真理とし、何をもって体系的とするかがある。
可謬性があると捉えると、なおのこと難しくなる。

何度も書いているが、それをいうと知が高尚なものになりすぎるため、何をもって知かは、今の自分の認識できる範囲での定義でいいと思うのだが、いずれにしても、闇の側面ある。

それは、知があることによって、新たなバイアスが生まれてしまうこと、知的好奇心が薄れてしまうなどがあげられるだろう。

(切り口をかえれば、人に対する優越感をもってしまうことや、知らぬが仏とあるように知るがゆえに苦しいこともあるだろう。これは、これで別論点になるので、この程度にしておく)

そう思うと、知っていることの中に、知らないことはたくさんあることは忘れてはならない。

何を大事にしたいのか

ここまで知について述べてきて、結局私が今を大事にしたいかというと、
「知らない」ということにもっと深く多様で丁寧に扱いたいし、それ自体に歓びをもちたい。

「知っている」と「知らない」は相互に作用しており、「無知→不知」においても、「不知→知」においても、「不知」というものをどれほど豊かに捉えられるかが、知の探求の肝になる。

知らないは、味わい深い。

2021年2月16日の日記より
2月17日

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