ここ数日、仕事がやや忙しく、ヨガにいけていないからか、左肩が痛む。
思えば、こんな身体の異変にも意識が向くことは、ヨガの実践をしなければいかなかったように思う。
仕事中も、痛む左肩に意識が向かい、集中できていない自分がいて、身体と心は切り離せないもので繋がっているんだなと改めて感じる。
さて、今日はディストピア小説で名著となっているジョージ・オーウェルの「1984年」を読んだ。
スターリンのみならず、トランプ大統領時代のオルタナティブファクトやポスト・トゥルース、中国政府など、本作のような世界観が多いことから今にまで売れ続けているだけあって、考えさせられることはあまりにも多い。
とりあえず、今日は「言語」について感じたことを綴っておきたい。
本作の代表的な言葉となっている「ニュースピーク」。
党にとって不都合な言葉を徹底的に削ぎ落とした言語で、これをもって人間の思考の範囲を狭め、思考停止へと追い込む。
思考は言語から来ていることは、色んなところから聞くが、それが実際どのように思考停止へと追い込んでいるのがありありとわかった。
本書を通じて、私たちの思考は言語に依存していることを改めて認識したい。
仏教思想の空を理解するにあたっては、我々が言語に支配されていることがよくわかる。
CONTENTS
身近に引き寄せて
私の身近に引き寄せていくと、コーチングにおいても、クライアントの複雑な感情を正確に理解するのに、多様な言葉がある。
一口に「イライラ」といっても、それは「むかつく」感じなのか、「もどかしい」感じなのか、「しゃくにさわる」感じなのか、それ以外にも色んな表現がある。
自分の言語世界が狭いと、色んな差がすべて同じ「イライラ」として進めてしまう恐れがある。
セッション時に重要な単語をキャッチできるか聞き流してしまうかは、人の内面を扱う対人支援の仕事には重要であり、この繊細さを掴み取るためにも言語世界は重要になる。
成人発達理論においても、発達するにあたって認識が広がることは、拡張された認識を適切に表現するために、発達段階が上がれば上がるほど、これまで以上に多様な言葉で物事を表現している。
言葉に敏感になること
思えば私自身、コーチングの仕事をし始めてから、随分と言葉に敏感になった。
もっというと、成人発達理論やインテグラル理論の探求を始めてからさらに敏感になった。
それは、私自身が発する言葉もそうであるし、他者が発する言葉にも敏感になっている。
たとえば、自分自身が発する言葉であれば、エールにおいて、新しいサポーター(コーチ)が初めてクライアントへセッションをする際、「いよいよデビュー戦ですね!応援してます!」という言おうかと、言葉が頭の中によぎった瞬間、違和感も同時に起こる。
その言葉自体は悪いことではない。スポーツのようなメタファーでわかりやすくていいことだろう。
一方で、どこか私の中で「デビュー戦」という「戦」自体に違和感がある。それはセッションは勝ち負けの世界ではないことから起因している。
これはあくまで私に司る言葉だが、他者が発する言葉においても、1つ1つの言葉から、相手がもつ前提条件や認知や信念、その人自身のもつ世界観が少しずつ感じられるようになって、以前より敏感になっている。
言語世界と思考をどう豊かにするか
では、言語世界を豊かにしていくためには、どうすればいいのだろうか。
自分の言語領域にないものに触れていくことだろう。
そのための1つとして、私にとって本は重要である。もちろん何でもいいわけではなく、自分の発達段階を少し越えた書籍に触れていきたい。
この際特に思うのが、本に触れるだけでは、厳密には自分の血肉となっておらず、アウトプットをして血肉化される。
私にとってはこのジャーナリングはアウトプットの1つであって、私も日々、新しい言葉をこのジャーナリングに埋め込んでいきたい。
また、そもそも語学自体も日本語以外にも触れていきたい。
一方、思考が言語に依存するということを踏めて、言語世界を豊かにする発想以外に、言語以外に依存させるものをつくるというも重要だと言えるかもしれない。
私自身も言葉にした途端、違和感が出るものがある。
その言語にできないが、感情や身体感覚として捉えているものを、絵や曲や踊りで表現することで、その感覚を忘却せず、残しておくことができる。
言語世界を豊かにしていくこと。
と同時に、言語になる前の感覚を掴んでおくこと。
そんなことを改めて大切にしたい。
2021年2月26日の日記より
2021年2月28日