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日記「あじわい」

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不在を愛する境地(ウェルビーイング)#104

人類は進歩して幸福になったのか?というと問いに対して、うんと言いたいが言えない部分があるのは多くの人が持っているだろう。

外面的にみる医学的なウェルビーイングでいえば、確かに医学や技術が進歩したが、内面的にみる持続的なウェルビーイングでいえば、特に疑問がある部分だ。

今日、和歌や能という日本の伝統文化に関する記述を読んでいると、なおのこと感じた。

たとえば、和歌や俳諧。ほんのわずかの言葉で、情景が想像される。

能にも、わずか三間四方の狭い舞台で、身体で表現する芸術あり、その限られた制限ゆえに、観る人の脳内ARが発動する。

禅庭の「枯山水」も同様のことが言える。

対して、インターネットが浸透した現在、動画として瞬時に色んなことが見れるようになり、私たちの想像力は、当時と比べて退化していないだろうか。

ウェルビーイングの中には、個人の内面的な要素(自尊心、楽観性、フローなど)、他者との関わりの要素(感謝、共感など)、超越的な要素(一体感など)、どれも我々が目に見えぬものも感じ取っていくものとして共通している。

現代は、あまりにもファストで刺激が多すぎる。その引力は年々増していく。優しくまぶたを閉じ、ゆっくりと感じ取っていく時間がもっと必要だろう。

私も加藤さんに感化され、家を出るのは、スーパーかヨガスタジオのみになった。コーチングセッション以外は、1ヶ月ほとんど誰とも話さず、書斎の中で静寂を招き入れる。かつてイベント業をしていた自分からすると不思議だが、動的な側面は今でも好みながらも、静的な側面の自分をつくっている。

しかしこのような生活は、誰もが自由にできるわけではない。

動的な引力があまりに強い現代の環境下、どの発達段階においても健全さを保つためにも、動的な引力を活用しながらも、ダイナミックに対極にあるスローで静かな時間をつくる引力を社会のシステムとしても設計する必要がある。

そういえば、昔チャンバラのイベントの仕事をしていた頃、戦開始の合図は、一瞬音を止めて「無」の時間をつくっていた。静かな時間のあと、MCの合図とともに激しい曲が流れ戦が開始する。

これこそ、無、静の時間があったからこそ、動が輝き出す。

コーチングにおいても、目を瞑り沈黙をつくる。その無こそが輝きある未来の情景を創り出す。

私たちは、何もしないことを恐れていないだろうか。何もしないのは、何もないのではない。何もないということが、確かにあるのである。

何もないから何でもありうる。

これを「色即是空、空即是色」と呼んだりするのだろう。

こんな現代だからこそ、何もないという不在を愛そうではないか。
そして、社会にそういうシステムを組み込もうではないか。

2021年3月27日の日記より
2021年3月28日

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