発達理論を学び始めた方には、「器そのものの発達」と「認知の発達」が区別されずに理解していくことが多いだろう。
私もよく、発達とは何ですか?と一言で聞かれると、
ピアジェの言葉を借りて「自己中心性の減少です」
といったり
「認識世界の拡張です」
と言ったりする。
実際、日本で浸透しているロバート・キーガンのモデルを説明する際には、水平的な成長と垂直的な成長をわけて話がされる。
水平的な成長がスキルや知識の拡大で、垂直的な成長が器そのものの成長であると。そして、キーガンのモデルは器そのものの成長を扱っていると。
水平的なものがアプリであることに対して、垂直的なものがOSであると。
しかし、徐々に学びを続けていると、器と認知の違いは何なのか?という問いが浮かんでくるかと思う。
というのも、インテグラル理論における発達ライン(領域)という概念がくることで、器とは別で、認知が独自のラインとして存在することを理解する。
カートフィッシャーの理論でみれば、すべて能力として捉え、キーガンでさえも、それは意味構築という1つのスキルとして捉えられるわけである。
そうなると、そもそも器そのものというのは何なのか?そんな問いに出くわす。
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器そのものは、認知の発達ではない。
基本的に、器そのものは、大いなる入れ子と捉えていただくのが良いのではないかと思っている。
各理論家たちが主張しているラインは、大いなる入れ子の諸段階を通って、展開されていく。
大いなる入れ子という基盤となる波があり、さまざまなな発達ラインは、ボートとして浮かぶイメージである。
では、器(意識)の発達と認知の発達は同じなのか?
結論的には全くもって異なる。
同じであれば、器には、認知できぬものしか収まらなくなる。
我々には認知できぬものが多く存在している。
もし器=認知になれば、そういったものが排除されてしまう。
ゆえに、認知=器ではない。
認知の発達は、器の発達における極めて重要なペースメーカーとなる
とはいえ、認知の発達には、器の発達において極めて重要なものとなる。
認知的(cognitive)という語の辞書的な定義のひとつに、「意識に関係している」とある。
個々の発達ライン(例えば道徳性、自己感覚、信仰など)を研究した人たちがほとんどが常に発見してきたのは、認知(認識)の発達が、他のラインの発達にとって必要である(しかし十分ではない)ということ。
言えば当たり前だが、道徳性を磨く時に、こういった道徳観が大事であるという認知ができぬと自分で抱くこともできない。
NVCは感情のリストを細かくしていて、表現を豊かにすることで自分の感情に、適切な言葉を与えることで認知する。
フォーカシングにおいても、体験過程というのは言葉にしていくことによって、自分が言葉にならぬものを徐々に理解していく。
こうやって、我々は認知がさまざまなラインにおける発達の必須といえるし、認知がペースメーカーにもなる。
この点からも、ウィルバーは、器と認知が決して同一視されるべきではないが、認知の発達ラインに関する用語(例えば、道具操作的、形式操作的)が器の発達そのものを指す時に用いているし、同時に、個別のラインとしても扱ってもいる。
高次における重要なライン
器の発達において、認知は重要であることを述べたどおり。
しかし、もう1つとても重要なラインがある。それが精神性のラインになる。
それは、存在の入れ子が魂スピリットとあることがそれを伝えてくれている。
我々はどのラインにしても、微細なものを感じ取ることができる。
サッカーのフリーキックにしても、ボールの回転をわずかかえてコントロールする。
まさにこれを我々は神業と言葉を与えているように、非常に微細なものを感じ取っていく。
これは言語、概念にならぬ、直感がなす技であり、高次のラインにおいては、精神性のラインが非常に重要になる。
ゆえに、器そのものの発達は、認知の発達ではなく区別したもので捉える必要がある。だが、器の発達には、認知、精神性の発達が極めて重要であるといえる。
2021年8月13日の日記より