Journaling

日記「あじわい」

Journalingトップ

人や組織の発達が「善」なのか、「幸福」なのかという重要な論点#111

成人発達理論にしても、ティール組織にしても、インテグラル理論にしても、これを活用するには危険性を伴うゆえに、発達科学を扱う人間として、自分なりの発達哲学、換言すれば発達科学をとらえる認知や倫理観が非常に問われる。

そのために、人や組織において、発達が「善」なのか、「幸福」なのかというイシューは、重要な論点の1つになる。

このあたりは、探求される方々とも何度も対話させていただきたいことだ。

この捉え方について、1つの見解をここに残しておきたい。

前提として、これから述べる持論自体、今の私の発達構造等に立脚しているものし、1つの観点に過ぎないゆえ、これ自体、明日明後日にも話す内容は変わっていくだろう。

探求を続ければ変化する。

だが、今この瞬間思うことを、言語化して述べておきたい。

必ずしも善とはいえない、幸福とはいえない側面

まず、発達が必ずしも善とはいえない例。

代表例として、組織において、多くの人がティールがいいと思うが、炎上時はトップダウンで進む組織の方がいい。

個人においても同様、オレンジのほうがグリーンより意思決定早い。

グリーンはある種、ビジネス上の成果に対する嫌気を感じがちなで、その点オレンジの方が経営自体もうまくいくとも言える。

続いて発達が必ずしも幸福とはいえない例。

私がよく使う例の、牛丼食べてうまいという話。

牛は、畜産の過程でものすごいメタンガスを排出しており、地球温暖化を促進しているし、1つの生命を奪っているともいえる。

中島義道先生が不幸論の中で、人間の幸福は幻想であり、無知や無視があるから幸せを感じられているというのは、まさにこのこと。

知らないほうがいい、見ないほうがいいことのほうが幸せなことも多いのはわかりやすい。

また、発達は「死と再生」のプロセスと形容されるように、これまで構築してきたものを崩壊させて新しいものをつくるプロセスがどの段階にもあり、発達に関わる葛藤が生じるし、発達段階が高ければ、実存的なリスクはより高まっていく。

このような点からも、発達が善や幸福を約束するものではないといえる。

本当に善ではないのか、幸福ではないのか

ではここから先程の話を反論、というよりメタ的に捉えていきたい。

重要な点なのだが、善も幸福も、どこまでの物事を多面的かつ多層的あるいは多次元的に認識しているかによって異なる。

その善や幸福は、1つないし複数の尺度や観点でもって、思惟したものにすぎないのである。

換言すれば、発達していけば、ものごとの捉え方が広がるから、善の定義、幸福の定義自体もかわり続けていくということだ。

もっというと、ある一定段階の発達を遂げた者(ターコイズ(構築自覚段階)やインディゴ(一体化段階)以上)には、そもそも今までのリアリティは言語の産物であって、自我によって非二元の世界から切り離していることを自覚できているので、善や幸福自体も、言語が作り出した概念に過ぎず、言語を越えた(トランスバーバルないしポストバーバル)なものとさえ認識している。

だから、善も幸福も、一概にそれを約束しないというのは、あくまでその説明自体も、1つの捉え方という話として例示しているに過ぎない。

それでも善や幸福を約束しないという見解は、非常に重要であるから私自身も意図的に使っていきたい。

それは、相対主義的な方には理解されやすいとか、マーケティング的にそうした方がいいとか、そういう観点ももちろんあるし、もっというと、この話自体が、相手にとって発達哲学を涵養させる、倫理観を高める要素に繋がる観点だからだ。

私の想い

私自身はそういった観点も踏まえた上で、発達を促したいし、発達理論を広めていきたい。

もちろん、発達を無理に促すものでもないし、発達しようと思えば発達しないパラドックスがあることも踏まえた上で。

さらにいえば、今ある先人たちのあまたの発達理論やインテグラル理論さえも、多様で複雑な現象の一部しか表せていないことも理解した上で。

発達は人によって、ないし見方によって善や幸福を約束するものではないが、それが人類ないし地球ないし宇宙にとっての希望になると私は信じている。

なぜなら、現代が抱えている様々な問題自体が、人間の進歩に伴って、メタ的に発達しており、人間の発達を一段あげなければ解決できぬものがあると思っているからだ。

アインシュタインの言葉を言葉を借りれば、
「どんな問題も、それをつくり出したときの意識レベルでは解決できない」ということだ。

人間はどこまでいっても自我を滅却することはできないのかもしれない。

私を含め、まだまだ自己中心的なのだ。

それでも、誰もが居場所のある、誰もが健全に活躍できる世界は、自己中心的なもの段階を脱却しなければ実現されえないのだ。

わかりやすくに言えば、発達というのは、自己中心性の減少である。

発達した方が、自己中心性が減り、利他的になっていき、性別や人種や国や思想による対立自体もなくなり、人類を包み込むことができると思うのだ。

だから、私は発達を促していきたいし、広めていきたい。

そう思っている。

2021年4月3日の日記より
2021年4月4日

アーカイブ

LOADING...