キングダムの最新巻61巻を読んだが、改めて心理学、インテグラル理論の観点で興味深い点が多い。
特に羌瘣からは意識状態の多様さや霊性の描写が多い。巫舞で変性意識状態に入ることや、サトル、コーザル領域の様子が伺える。
今回の61巻では、満羽に着目したい。
CONTENTS
秦国の蒙武 VS 楚国の満羽
61巻では、秦と楚が戦うのだが、秦国の蒙武と楚国の満羽の一騎打ちは、満羽の内面の変容という点でとても興味深かった。
満羽の過去のシーンで描かれているが、満羽は自国のために守ってきたものたちに裏切られるという経験から、実存的危機に陥った。
その体験を通じた非常な悲しみは、満羽の心の奥で蓋をした状態であり、影(シャドー)として抑圧・投影というメカニズムで自分以外の対象に、その抑圧した衝動を投影し、自己の外部にそれを見出すようになっている。
今回は、蒙武というかつての自己のような人物と出会うことで、投影が起きた。
満羽にとって、蒙武との戦いは、単に敵国秦との戦い以上に、自己の影との戦いと意味合いが強い。
満羽からすれば、蒙武が背負っているもの(自国の民たちを守るという使命)がどうせ裏切られるにも関わらず、かつての自分のように背負っていることに苛立ちがあり、無駄であることを示したい欲求があるように見える。
が、満羽はかつての悲劇から一定時がたったこともあり、今はどちらかというと、裏切られるということに別の意味があるのではないか、裏切られても背負うことに何か意味があるのではないか、あるならばそれは何なのか、それを知りたい欲求があるように思う。
それを知れば、満羽が抱える影(シャドー)によって、分裂状態にある心が、蒙武との戦いを通じて、揺れ動きながら治癒(統合)が起きるような気配がして、楽しみである。
寿胡王(楚)と騰(秦)の会話
そんな満羽の心境を仲間である楚国の軍師、寿胡王は見事に捉えている。
ここの洞察は、寿胡王の軍師の経験ではなく、元は儒学者であったことが大きい。
寿胡王は、捕虜にされ死を目前としながら、なぜ秦国の騰や蒙武に満羽の話をするのか。
それは蒙武によって、満羽が変容しそうであることを伝えたかったからだろうが、それだけにとどまらないように思う。
それは満羽の内面に抱える問題を、単に満羽だけの問題としてみていないからだ。
むしろ、この問題を乗り越えることが、中華の未来、人の未来があると思っているだろう。
守っていた王や民に裏切られるという満羽の経験は、千斗雲も同様の経験をしているが、それだけに限らない。
これ自体の問題は、この時代の中華を生きるものが向き合わなければならない問題と捉えている。
さらに抽象度をあげると、じつは今日(こんにち)の私たちにも同様の課題だと思える。
それは何かというと、この寿胡王のセリフに現れているように思う。
「戦いがあり、勝者があり敗者があり、無力なる者たちの犠牲があり、そこには善と悪が交錯する。それを二分できるはずもなく、二分する意味もない。儂はただこう思う。人は愚かだと。(中略)悲劇の先に何かあることを願うばかりだ。人の愚かの先になにかがあることをな。」
現代の私たちも、学力での勝敗、ビジネスでの勝敗、様々なものがある。
自社の売上シェアが伸びて勝ったかのように思っていたら、社員が病んでいた、地球環境を壊していたというような現象がおき、なにが善で何が悪なのかは視点によって交錯している。
ここに気付き始めることができるのが、発達理論でいうとグリーン段階の特徴で、かつて一生懸命になっていたことは、1つのゲームに過ぎなかったという自己欺瞞に気付くことができる。
それにより、ある種の不安定さ、不活性さが出て、空虚感を抱く。
何をもって善かはその視点によって変わる、という相対的真理がある一方で、その上でも絶対的真理のようなものを見出し、意思決定して進んでいくのがティール、ターコイズの段階への道。
キングダムの中においても、中華を統一する、戦乱の世を平定するには、相対的真理を認識した上で、さらに絶対的真理を追求する段階の人間でなければ成し遂げることはできず、寿胡王はそこに関心があるのだと思う。
この話をきき、寿胡王を殺さなかった騰にも、同様の課題・関心があることから、単に敵国として殺すだけの将ではない器が見受けられた。
この先のキングダムが楽しみである。
2021年4月30日の日記より
2021年5月4日