有り難いことに、とある場でインテグラル理論の話をしてほしいとのことで、お話させていただいたが、こういった難解なものを伝える際、いくつかの葛藤がある。
「わかりやすさ」と「専門性(正確性)」というジレンマ。
これはインテグラル理論に限らず、哲学や思想もそうであるし、相手にとって専門外のことを伝える機会はそうなるだろう。
なるべくわかりやすくしたい。
だが、わかりやすくしすぎると、「ああこんなものか」とわかった気になられる。綺麗事に済まされることもある。本当はもっと奥深いものであるし、その探求を進めてほしい。
かといって、より専門性(正確性)を求めすぎると、相手がちんぷんかんぷんになりついていけず、結局関心がわかず、なんだったら嫌悪の対象にもなる場合もある。
本当にこれが難しい。
ただ、これも二律背反ではなく、対話をもってして統合できるような気もしている。
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わかりやすさと専門性の統合
とにかく基本スタンスは、「人を見て法を説く」
相手の状況、関心、世界観にあわせる。
最初はわかりやすさをベースに、情報量は少なく、言葉も選び抜く。何を話すかより、むしろ何を話さないかを明確にする。
そして双方向のやりとりをなるべく重視して、対話でもって、相手の興味、関心、世界観を理解して、その上で正確性や専門性へ寄せていく。
構造上のとりくみ
また、対象者をスクリーニングして対象者を明確にしておく必要はある。仮に、スクリーニング外の人がはいってきたとしても、基本は対象者にそって進める。
完全対話で進めるために、資料自体も作らない、あるいは作ってもかなり絞ることも有効だろう。過去にも、結局あれば説明してしまったことがあった。
自分の深層的な問題
とはいえ、「人を見て法を説く」を体現できない自分自身の深層的な問題もいくつかある。
(1)専門的な人間だと思われたい
どこか自分の中で、専門的な人だと思われたいという欲求がある。
とくに、相手が専門的な人であればあるほど。
そうなると、私から一方向に話すことが多く、情報量も多くなる。
(2)賢い人だと思われたい
それから私のシャドーという観点でいうと、賢い人だと思われたいという欲求があるだろう。長く受験の失敗を引きずって抑圧された欲求がある。
これもわかりやすさよりも専門性に比重がよる
こんなことも気づけているだけで、十分引っ張られないふるまいはできる。
当面はこのスタンスに立ち返りたい。
2021年6月5日の日記より
2021年6月6日