7月2日、19時。
昨晩は久しぶりに徹夜で仕事をやりきり、今にいたる。
無職なってから今の仕事までわりと悠々自適な生活をしているために、徹夜なんてのは前職のとき、2年ぶりくらいだろうか。
この感覚はすごく久しぶりで、不思議と心地よく感じている。
身体は疲れているにも関わらず、忙しいはずなのだが、こういうのが好きな自分がいて面白い。
この忙しさが好きでいる前提には、自分の好きなこと、やりたいことをやれているからだろう。グロービスへ通っていたとき、ベンチャーをしていたとき、そして今も。
手帳に書いてあるタスクを見ても、どれもワクワクし、仕事を一緒にさせていただいる方々に有り難く思う。
今日は午後から2年ぶりくらいか、久しぶりに友人と会ってカフェで話をした。
今私の周りにいる友人は、ほとんどがコーチングや心理学、私が専門にしているインテグラル理論や発達理論に関心のある人ばかりだ。
今日の友人はそういうことから遠い友人で、彼に今私が行っていること、これからやっていきたいことをわかりやすく話そうと思うが、なかなかうまく説明できず、話も冗長になり、隔靴掻痒感があった。
「人を見て法を説く」という自分に課せた鉄則も、見事にできておらず。相手の文脈、世界観に落とし込んで話をすることに対して、伸び代がたくさん。
しかし、今日もうまくできないと感じながらも、あれやこれやとこれまでと違う説明を試みるのは非常に良い経験になった。
ここ2年ほど、関わる人も減らし、連絡が来ない限りはこちらから関わりに行くこともあまりせず、仙人のように家に籠もっていた。
関わる人も結果的に、私と同じ関心のある方々。
しかし、全く異なる方々への関わりから学ぶことは多い。これからできる範囲で、少しずつ増やしていきたいと思う。
そういえば、今日発達理論の話を説明するにあたって、友人から「give&take」という話がでたので、それを例に説明をしてみた。
そのことを綴っておきたい。
発達するということは、認知できることが拡大する。
以下は、人の段階によって、認知が違うのではないかということを説明している。
当たり前だが、これはあくまで発達段階という一つの切り口で説明したに過ぎない。
レッドの段階は、損得勘定の世界観ゆえに、見返りがあるGiveしか行わない。返ってこないと不満をいう。
アンバーの段階は、会社なり家族なりコミュニティなり、何かしら集団への所属欲求が強く、その集団から受け取っていることに気付け、積極的にGiveもできる。
Giveすることで感謝されることに喜びを感じ、なおのこと「give&take」をする。しかし、どこか与えてばかりで疲弊感をもつこともある。
オレンジの段階では、所属するグループ以外にもできはじめる。「give&take」に対する持論ができはじめる。たとえば、ただ闇雲にGiveするのではなく、誰にどのようにgiveするかを明確にもっている。その範疇において、giveを行う。
グリーンの段階では、様々な場面で、これまで自分が多くのこと受け取っていることに気づき始める。頭ではなく、体感として持ち始めることができる。それにより、さらに自分ができるgiveが増えていくし、これまでgiveしなかったような人にもgiveができるようになる。
ティールの段階になれば、統合的な考え方ができるようになる。私がよく日記にも書いていることだが、「give&take」というのも、二分されているものではなく、今この瞬間に行っている行為そのものに両方が含まれていることに気づく。
たとえば、教えることはGiveのようにみえて、自分の学び定着になったり説明の仕方が勉強になったりと、Giveの要素にもTakeの要素が入っていることに気づいている。
こんな風に説明できるだろう。
ただし、これ自体も私という意識からうまれた産物に過ぎない。
ここにもしさらに追加して、ターコイズ段階、第三層のインディゴを加えていくならば、こんな感じだろうか。
ターコイズ段階は、自己というのが溶けていくようになり、これまで自分へのgiveと思えたものは、自分のためでもあるし、他者のためでもあるし、社会のためでもあるみたいな感覚が強まる。
ティール段階以上に、歴史的、社会的なことを含めてメタ的に起きている現象に対して「give&take」を感じられるだろう。もはや「give&take」ではない概念になっている。
さらに第三層のインディゴ段階になれば、「give&take」と感じているそのものが、自分の意識の産物であることに体感としてわかる。「give&take」というような相互作用しあっているものの根底にある未規定で非二元のものを感じ取れるようになる。
こんな感じだろうか。
そろそろ次のMTGに向けて、気持ちを落ち着かせていきたい。
2021年7月2日の日記より