今朝は、昨晩録画した「もののけ姫」を父と一緒に見た。
小学校の頃から、金曜ロードショーで流れるジブリ作品を父と一緒にみて育ち、大人になった今、こうやって一緒にみれること自体に、私の中で感慨深いものがり、静かに深い感謝の気持ちが広がった。
そして、今日はガンディーの「獄中からの手紙」を読み始めて、そこに共通点が多くみえる。
どの作品も、何度も何度も読み返したい、見返したい。
CONTENTS
獄中にいる精神状態
ガンディーは、独立運動によって刑務所に入れられる。
ネルソン・マンデラ、ヴィクトール・フランクルにしても、獄中ないし強制収容所内において、誰からもおかされることのない、聖域、精神的な自由を持ち続けていた。
ガンディーも同様、精神的な自由を心にもっていた。
ガンディーは、刑務所をお寺だと捉えていた。
これほど外と切り離され、しずかに考えることのない場所はない。
考えをまとめる機会だと捉え、本書「獄中からの手紙」を書いた。
人並みの人間には到底できぬ考えだが、このような人間がいるということに大きなの勇気をもらう。
自分もそのような人間でいたいと。
そして、人間には誰しもがそのようになっていけるのだと。
構造そのものを変えていく
ガンディーは、これまでの独立運動の指導者と全く異なっていた。
それが非暴力。
しかし、大事なポイントは、構造そのものを捉えていることにある。
あるとき、独立のデモで、2万人のインド人が公園に集まった際、イギリス軍による銃撃により約1200名が射殺される。
インド人も黙っていられるはずもない。
イギリス人を放火で殺害してやり返す。
暴力を暴力で返すことを目の当たりにして、ガンディーは、運動を停止する。
これではインドは独立することはできない。いや、これで独立したとしても、何の意味もないという。
もう1つのイギリスを作ってどうするんだと。
強い方が支配する、支配されたほうが力をつけて支配し返す。その繰り返しでは、なんら意味もなく、その構造そのもの捉えて、構造そのものを変えようとしたわけである。
私達が対峙しているもの
これに関しては、ネルソン・マンデラもよく似ている。
マンデラも、黒人白人の対立を乗り越えようとした。
あれだけ白人にひどい目にあい、恨みはさぞかしあっただろう。
自分の家族さえも殺された。
その上で、白人を許す行為ができるだろうか。
今朝見たもののけ姫のアシタカも同様。
自らが村を守ったにもかかわらず、呪いを受け命をとられる宿命を受け入れられることができるだろうか。
エボシという人間が、タタリ神をつくった元凶であり、普通ならエボシを憎み殺してもおかしくない。
しかし、ガンディーにしても、マンデラにしても、アシタカにしてもそうはしない。
そう思うと、実はわたしたちが戦っているのは、目の前の相手ではなく、自らの怒りや憎しみという感情そのものではないだろうか。
わたしたちが真に乗り越えないといけないものは、赦せないというその自分の心ではないだろうか。
それに打ち克つものが、彼らのようになれ、負けてしまうものがタタリ神になってしまうのではないか。
彼らを衝き動かしているもの
とはいえ、では自分の内なる敵をおさめればよいのかというと、そうではないように思う。
カンディー、マンデラ、アシタカ、彼らは構造そのものを捉えている。
彼らを動機付けているものは、自らの呪いを解きたいという欲求はもちろんありながらも、それ以上に、そうした呪いを生み出した原因そのもの、怨念を再生産する構造そのものを解決したいという使命感からきている。
それが彼らを衝き動かしているのではないかと思う。
システムを生み出すシステムは何か、真に向き合うべきもの
だが、もっと巨視的にみていくと、こういった構造そのものを生み出している構造は何なのか?という問いがたつ。
インド独立運動にしても、イギリスを植民地へと駆り立てる近代文明をつくったシステムは何なのか?
白人が黒人を人種差別するにいたったシステムは何なのか?
人間と森が奪い合うというシステムをつくったシステムは何なのか?
行き着くところ、これが人間の欲望なのではないかと思う。
ガンディーはこのように言っている。
「富も家族も肉体も、いまあるごとく、そこに存在することには変わりはありません。したがってわたしたちは、そこに対するこちらの態度を変えさえすればよいのです。」
この欲望は、物欲、食欲、所有欲といったわかりやすいところもあるが、究極的な欲望は、自分が自分であろうとする欲求ではないかと思う。
発達理論、インテグラル理論の中においても、ティール段階を超えたターコイズという段階において、自我が自己保存のために活動していたことに気づくようになる。
この自己保存、自分が自分であろうとする欲求、これこそがシステムを生み出すシステムの根源ではないだろうか。
自分とは何なのだろうか
自分とは何なのだろうか。
ガンディーはこのようにいう。
「これらはすべて、わたしたちの所有物ではなく、神のものです。この世には、ひとつとしてわたしたちの物はありません。わたしたち自身ですら神のものなのです。」
私達は神のもの、神の器と捉えている。
マザー・テレサの、私を道具として使ってくださいとはそういうことである。
神に馴染みがなければ、仏教の言葉で言い換えるならば、私というものは存在せず、そこにあるのは空。
色即是空空即是色。
すべてのものは、フィクションであると同時にリアリティでもあるわけである。
だから究極的には、私が私であること欲望を手放していくことが真に私達が立ち向かうものではないだろうか。
もがき苦しみながらも光明を見出す
とはいえ、現実はあまりにもかけ離れている。
発達理論でいえば、それは機を熟して、ゆっくりと起こってくるのである。
そして、現実にもどると、目の前にある現実を変えねばならない。
実際には、構造自体を変えたいと思えど、どうすればよいかわからない。
対立する両方に身を投じながら、寄り添い対話を行う。
これ自体なかなかできぬものだが、仮にできたとしても、どう動けばいいのかわからない。
むしろ、動けば動くほど、多種多様な視点がとれ、対立構造、矛盾構造がより見え、がんじがらめになる。より一層動けなくなる。
私自身も実生活の中で、仕事の中でそれをものすごく痛感する。
しかし、ここでもガンディーの言葉がつきささる。
「ある人にとって真実と思われることが、他の人にとって虚偽に見えることがしばしばあります。
しかし求道者は、そのことをくよくよ思い悩む必要はありません。
真摯な努力を重ねていけば、一見異なる真実に見えるものが、結局は同じ樹に繁茂する見かけの違った無数の木の葉のようなものであることがわかるでしょう。」
対立に見えようが、矛盾に見えようが、本質的には1つなのである。
国籍にしても、宗教にしても、我々が未熟ゆえに、それが異なるように見えるだけであって、本質的には共通しているのである。
わからないが、ガンディーやマンデラやアシタカも、どうすれば対立構造自体を変えることができるのか、最初からわかっているわけではないだろう。
それでも、真理は1つであるし、対立構造そのものを変えるということを信じる。
苦しみもがきながらも、それだけは信じて動きし続ける。そこになにか光明を見出していくのではないかと思う。
その意味で、冒頭にあるガンディーの言葉は深い。
「わたしたちの一挙手一投足は、真理をめぐっておこなわれなければなりません。真理がわたしたちの生命の息吹そのものでなければなりません。」
我々もこのような精神でありたいと思う。
2021年8月14日の日記より