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日記「あじわい」

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何らかのスタンスをとるべき時はとること#329

時刻は0時前。

久しぶりに大粒の雨が振り始めた。畑の作物たちが喜びそうだ。

さて、「父性と母性の統合」という私にとってのテーマがある。

それは、コーチの仕事をしていることもあり、自分の中の母性は育まれるが、父性がないがしろになっている感覚がある。

この父性と母性の統合は、色んな観点があるのだが、今日はそのうちの1つ、スタンスをとるということについて。

スタンスといっているのは、様々な社会の問題や政治的な論点に対して、自分はどういう見解でいるのか。

これを出していきたいと思う。いや出すべきだと思う。

特に、政治的なことや宗教的なことなど、簡単なものなら楽なのだが、複雑になればなるほど難しく、スタンスをとることを控える。

これは、私個人というより、日本社会の1つの大きな課題とも言える。

もちろん、判断を保留することの重要性はある。

しかし、決めねばならないときには決めねばならない。

選挙の投票にしても、経営における意思決定にしても。

相対主義的、平等主義的であることの素晴らしさばかりが広がりで、そこには表裏一体としてある限界と危険性がある。

しかし、実際のところ、こういったスタンスをとることには恐れがある。

この恐れは、先日エールの仲間がスラックで同じようなことをつぶやいてくださっていて、それを聴いて私も同様に感じている。

恐れには、大きく2つ。

・スタンスを取ることで、誰かに責められる怖さ
・スタンスを取ることで、誰かを責める怖さ

そして、私の中には、共通してあるのは、つながりが切れてしまうことの怖さ

つながりが切れてしまうことの怖さ

なんらかのスタンスをとることで、別のスタンスを取る人間に、責められたり、責めてしまう恐れがある。

たとえば、昨日は、たまたま「イカゲーム」というドラマをきっかけに、パチンコやカジノについて、なくなるべきものだというスタンスを出した。

しかし、パチンコ業界で働く友人や経済を推進する友人からは、距離を取られてしまう。

それは、あなたのそのテーマに関しての価値判断の差であり、人間性を否定しているわけではないのだが、伝え方も難しいし、実際のところ相手の認知の問題もあるので、その切り分けは難しい。

こういったことは、実際のところ、議論や対話がセットであるべきだと思うし、文章のみは、一人歩きしてしまうということを想定しなければならないことを改めて思う。

と書きながら、そういったことをいって発信を控えると、また元の木阿弥。

どこまでいっても、私という人間を通じて得た洞察をもってスタンスをとっているだけであることはわかっているので、それ以外の視点をとりながら、なるべくわかりやすく、双方にとっても共感的なコミュニケーションでことを進められる人間でありたいと思う。

そういった思いも含めて、自分の父性と母性のテーマは深いものがある。

2021年11月8日の日記より

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