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日記「あじわい」

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取り憑かれたかのように起こる驚異的なエネルギー#389

時刻は0時を過ぎた。

今年に入ってから、ジャーナリングを公開する頻度は減った。

より書きたい気持ちに委ねている。

そして、今まさに、書きたい衝動で書き始めている。

まとまらぬままに。

1月に入って、既存のお客さんとの仕事をしてはいるものの、感覚としてはほぼ仕事という仕事をせず、ただひたすらに探求をしている。

特に、本をひたすらに読む。

知行合一であることは、時を重ねるごとに大事にしており、実践は怠らずしている。知においても、音読を基本とし、ゆっくりを大事にしている。

井筒俊彦にしても西田幾多郎にしても鈴木大拙にしても、東洋思想で語れられることの真髄は、体感として理解することは特に難しい。

言っていることの一部をかろうじで頭だけで理解したつもりではいるものの、自分の実体験としてないようにさえ思う。

だが、あるのである。

それは、神秘体験というものが非日常とくっつけるのではなく、日常の中にあるのだが、自分の今の状態がゆえに見過ごされているものに過ぎないのである。

すくい取ろうと思えば、いつでもそこにあるのである。

だから、1つ1つ、すくい上げては読み、すくい上げては読み、自己のものとして、まるで食べる瞑想をするかのごとく、ゆっくりと噛み締めながら探求している。

しかし、ふと思う。

この取り憑かれたかのように起こる驚異的なエネルギーは何なのだろうか。

何が私を突き動かしているのだろうかと。

一見、20代の頃、ビジネススクールに通い、経営学、MBAという学問と会社経営に燃えていたアグレッシブさのように見える。

対象が経営学から哲学、思想、心理学に変わっただけで。

しかし、シャドーのレイヤーからみると明らかに別のものであるように思う。

当時の、優秀者であるという自己顕示欲、名誉欲、金銭欲は、今ではなくなってはいないものの、小さく、支配的なものではない。

それらは、今の自分にとってまた別の次元のレベルのシャドーとして出会ってはいるが、それが衝き動かしているようには思えないのだ。

では、純粋な自分の好奇心なのか。

そうなのだが、ただ単に、好奇心や知識欲といったものでは済まされないものが、自分を衝き動かしている。

探求すればするほど、知の広大さを知っておろう。

きりがないことも知っておろう。

そしてそれらは、抽象度を高めれば同じもののように見えてくる。

学ぶ叡智も「多即一」なのである。

だから、今読んでいる本もほどほどにしろよと言われそうだ。

しかし、違う。

それは同時に、「一即多」でもあるのだ。

「一」への道でもあり、同時に「多」への道でもある。

この世に同じものは1つもない。

素晴らしい芸術の数々が、まるで芸術と一括りされることが悲しいように、一人ひとりの人間が、まるで人間と一括りにされることが悲しいように、「多」への道も大事にしたいのだ。

お前は、それを大事にしたいのだろう。

それがお前がこのジャーナリングにつけた「あじわい」ということなのであろう。

それがお前の法悦、邂逅の喜びなのだろう。

根底にはこれが私を衝き動かしているように思える。

と同時に、同じような実存的なレイヤーで、別に私を衝き動かしているものもあるように思う。

2019年末から起きた、サルトルのいうまさに嘔吐的体験が、いまだに私の実存的な旅が続いているのである。

自分なりにだが、現代の社会構造を脱却しながらも、その構造の中で生きるという、二重生活を送るものの、おそらくそれは井筒俊彦がいうような二重写しではないのだ。

だが、賽は投げられた。

何かに向かわせていただいていることをありがたく、そして楽しんでいこうではないか。

2022年1月27日の日記より

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