時刻は深夜2:30
一瞬一生の会の最後のクラスを終えてから、仮眠をとり、今ジャーナルを書き始めた。
今日のジャーナルの目的は、終わりというものを丁寧に、自己に招き入れること。
ここ数日、終わりとはじまりの繋がりを何度も感じた。
父のできごと、母と話す死という対話も。
だから、私は終わりというものを招き入れ、新しいものへと自己を明け渡してあげたい。
この一瞬一生の会は、私にとってとても大切な場であったのだが、それがどれほど大切だったのか、どれほど尊いものだったかを、今日のクラスの一連の流れから感じ始め、クラスの最後、一言ずつ感想を述べてゆく時間で一気に込み上げてくるものあり、涙とともに湧き溢れ出てきた。
言葉にできぬ想いだった。
思えばこの会で、ジャーナリングを共有するという営み1つとっても、それがどれほど尊いものだったのだろうか。
今になって気付くことができた。
大切な贈り物だったことを、今になってかみしめることができた。
表象的なものではなく、奥深くにある大切な人生、想いに触れさせていただく。
ジャーナリングというのは、私にとってはコーチングのようなものかもしれない。方法は違えど、自己との対話という点では同じものであって、そこから生まれてくるものは、唯一無二のかけがえのないもの。
ゆえに、言葉では形容し難い美しさがつまっている。
もちろんその時気付けなかったものも多くある。
互いに紆余曲折ありながら、今になってようやく、私があの時こうしておけばと思うこともある。少し悔しい気持ちもある。でもその至らなさも含めて、何か大きな意味があることも感じた。
この宇宙は絶えず変化し続け、同じものは何1つとしてない。
長い人類の歴史の中で、阿世賀淳という人間は、私1人しかいないし、皆様1人1人もたった1人しかいない。過去もこの先もずっと。
この自分の人生をつかってしか、生み出せないものがある。
この自分の人生をつかってしか、輝きがでないものがある。
皆様お一人お一人の奥深さに、私自身が気付けていないことは山程あるように思う。
それでも、その一部かもしれませんが、
この場に差し出していただき、ありがとうございます。
息づいているものを分け与えていただいて、ありがとうございます。
ジャーナリングだけでも今後も共有しましょうと一瞬思ったが、終わりがあることで、また新しい始まりが生まれるし、終りがあるから輝きが増す。
だから、私は終わりを快く受け入れていきたい。
それは、一瞬一生の会もそうだし、人の命もそうだし、ミクロにしていけば、本当は1日1日、今のこの一瞬一瞬も終わりとはじまりの連鎖があることを深く体感しておきたい。
人生の流れの中で、皆様と再び相まみえることを楽しみにしております。
2021年3月29日。
私は人生から大切な贈り物をいただいた。
この半年、皆様と時間をともにさせていただき、創発された数々のものたちを感じながら、この上ない歓びとともに、ここに記載する最後のジャーナリングとします。
今この瞬間生まれた水彩画とともに。
創発されたものと共にいる終わりという始まり
一瞬一生の会 を終えて
阿世賀淳
2021年3月30日の日記より
2021年3月31日
(注:最後のジャーナリングというのは、一瞬一生の会用に共有したジャーナルのこと。本ブログは私個人の活動として続く。)