進化思考の読書会に参加して今後の自分のために、改めて強く感じたことを綴りたい。
何かをインプットする際に、言葉以上に、その言葉に対して自分がどのような認知をしているか(意味づけをしているか)や、体現度合いを問いたい。
アカデミックな世界では、巨人の肩に乗っている。
(厳密には、アカデミックな世界だけではなく、この世界自体、相互作用し合いながら変化し続け、連鎖によってできている。)
論文を読んでも、この論文とこの論文は何が違うのか?
何が共通点で何が差異点なのか?
毎度思う。
今回の進化思考でも、デザイナーの友人が、「変異の9つは、オズボーンのチェックリストと結局同じじゃない?」という。
そこで、私が強く思うのは、もはや言葉やフレームワークというのは表象のものなので、同じ理論は多くある。
むしろその言葉がどのような次元で認知されているものなのか。どれくらい多次元的な意味づけがなされているものなのか。そして、それをどれくらい体現できているのか。
これが大切に思う。
進化思考、あるいは太刀川さんのユニークさは何かというと、私が思うに、「創造性を、進化論を軸に体系化」したところにあると思う。
たとえば変異の9つは、オズボーンのチェックリストがフレーム的には同じだったとしても、それを進化論の観点で語っているか、というとそうではない。
そして、それを使いこなせているか、体現できているか、という点では、太刀川さんは錚々たる実績がある。
ゆえに、何かインプットする際、広さと深みがあり、「深み」を忘れては行けないように思う。
私のこの発想そのものは、カートフィッシャー先生そのものから学んだことであるし、深みというのは言葉を変えると発達になり、発達理論の研究者たちがもっている観点に思う。
なんだろう。
いうならば、「知の広がり」と「知の深み」と言えばわかりやすいだろうか。
表象的なものは、知ってるか知らないかという、「知の広がり」にとどまるのだが、「知の深み」というのは、その言葉1つどれくらいの認知の豊かさ、意味付けの豊かさがあるか。
もちろん「知の広がり」が「知の深み」と相互作用するわけなので、どちらも重要なのであるが、深みという観点がなくては、わたしたちはあまりにも本質的なことを周縁化してしまう。
わかった気になってしまう、できた気になってしまう。
ゆえに、私も広がりのみならず、深みも大事にしていたい。
2021年6月13日の日記より
2021年6月15日