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日記「あじわい」

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本居宣長「うひ山ぶみ」を読んで#394

「うひ山ぶみ」

なんと美しいのだろうか。

「うひ山ぶみ」、つまり、はじめての山登り。あるいは、新しい山登り。

新しい学問を学ぶことを、新しい山に登るとたとえているわけである。

この美しいタイトルは、私は惚れ惚れと魅了する。

古文を口に出して読めば、その美しさが立体的に浮かび上がってくる。

そんなの関係ねえ

【原文】
また人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生れつきたることなれば、力に及びがたし。されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有る物也。

また晩学の人もつとめはげめば思ひの外功をなすことあり。また暇いとまのなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも功をなすもの也。されば才のともしきや、学ぶことの晩おそきや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて止やむることなかれ。

さてその主むねとしてよるべきすぢは何れぞといへば、道の学問なり。

超訳とさえも言えないものだが、読みながら、私が本居先生と対話したのはこうである。

阿世賀「とはいっても先生、私には学問の才能がありません。幼き頃より、成績は悪く、30を越えてからようやく、このような学問に出会ったところです。」

本居「学ぶことに、早いも遅いなければ、才能があるもないも関係がない。
やれば、確実に前進する。学びというのは、お主の道を探求することにほかならない。」

阿世賀「ぐううう。そのとおりです。学びます。学びます。私のように、遅かろうが、才能がなかろうが、我が道を探求いたしまする。」

と、時おり気にしていた自らが晩学であることや、才能のなさを見事に打ち砕かれた。

本居先生から教わる本の読み方

最も美しく感じたのは、この文章だ。

【原文】
またいづれの書をよむとても、初心のほどはかたはしより文義を解せんとはすべからず。まづ大抵にさらさらと見て他の書にうつり、これやかれやと読ては、またさきによみたる書へ立かへりつつ、幾遍いくへんもよむうちには、始めに聞えざりし事も、そろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也。

あああ・・・美しい・・・

現代口語訳が私に合わないようですから、ここは私めが真剣に訳しますと

どんな本を読むにしても、初心者は片っ端から意味を理解するんじゃない。

まず、大雑把にさらさらと見て、他の書物に移り、あれやこれやと色んな本を読んではさっき読んだ本に立ち返る。

そうして読んでいるうちに、始めに聴こえなかったことも、聴こえてくるようになる。

そう、聴こえてくるんですよ。

本は、読むんじゃないんです。聴くんです。

本が私に語りかけてくれるんです。

本が語りかけてくれないなら、それは今じゃないんですよ。

だから他の本を読んだらいいんです。

そうしているうちに、本が語りかけてくれるんです。

照らし出す

今日は門林奨さんの勉強会に参加していた。

心に残ったものは、理論は、すでにそこにあったものを照らし出すという言葉である。

そう。理論は作り出すものじゃなくて、すでにそこにあったものに気づいていくことなのだ。それを拾い上げてみたのが理論なんだ。

だから、学問というのは、すでにそこにあるものを自分の意識の上に浮かび上がらせることで、そうやって世界の深みを汲み取っていく。

そして、究極的な関心ごとは、道なのだ。

2022年2月9日の日記より

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