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日記「あじわい」

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2021年9月4日、母の68歳の誕生日になった。

私も昨晩、修業寺(という名の、ただの私のひとり暮らしの家)から実家へ戻った。

三田が誇る小山ロールも用意した。

11時頃、実家の近くに住む一番上の兄貴がきた。

兄貴の子どもたちが、ばあば(私の母)に絵を書いたとのことで、プレゼントと共に。

甥っ子たちのその絵はもちろんだが、それ以上に、これをする兄貴の母への愛情をものすごく感じた。

兄貴なりの母への愛情表現。

身内ながら、兄貴すげーなと思う。

母が、先日姉夫妻の姪っ子と撮った七五三の写真を兄貴に見せながら、ジョークで「これ慰霊写真にしようかな笑」と、少しの本気も混ぜながら冗談を言う。

あと少しで祖母が90になる。父も母も68歳になる。

一緒に過ごすと、ところどころで、死や老いという避けがたい現実を、不思議と徐々に引き受けていっている様子が見える。

最近、老いや死をどう捉えるのかという関心から、ボーヴォワールの「老い」ファウラーの発達理論を読んだり、そういったワークにも少しずつながら取り組んだりしているが、父や母は、表には出ない内面の奥におそらく死や老いへの恐れがありながらも、自然と徐々に引き受けていっている感じをみると、人間はすごいものだなと思う。

12時頃、兄貴の一番したの子供、3歳くらいの三男が、母(甥っ子からすると祖母)が作った昼食を嬉しそうに食べている。

と同時に、母がものすごく嬉しそうにご飯を食べさせている。本来自分のご飯だったものを。

食べ終わってからも終始ご機嫌で楽しむ三男を見て、私が母に「可愛いな〜♪ほんまご機嫌やな♪」というと、母が「あんたも(同じ三男ということもあり)あんな感じやで」という。

これ興味深い発言だな〜と思う。

ふと想像する。

そうか、俺が今目の前で見てる景色、母が孫に関わる姿は、もしかしたら、母がこうやって幼児のときの私に関わってくれてたのかと。

もちろん冷静になれば、今の母と当時の母の年齢の違い、孫と子いう関係の違いなどはあれど、母の根っこにある母性や愛は変わらぬように思う。

ゆえに、あ〜こんな感じで関わってくれてたのかと。

自分が目の前で、同じ三男という甥っ子と母を目の前にして、幼児の頃の自分を見ているかのように思えた。

私の自我形成の型になるものが、このような愛で育まれたのかと思うと、改めて温かい気持ちになる。

そして、私がいうのは変なことだが、母自身もそうやって母になっていた。

自分のお腹の中に生命があるという神秘性をもち、意識状態が大きく変わる。子どもを身ごもり、産み、育て、母自身も子どもを通じて今の偉大な人間になっていったのだと思う。

そういえば、先日兄貴の嫁さんがこんなこと言ってた。

「「子ども3歳くらいが一番可愛いのかな〜」という話してて、お義母さんが「いまだに可愛いよ」って淳くんのこと言ってたよ〜笑」

どうも根底にある愛は変わることはないらしい。

私は、この愛を母から認知できぬ部分も含めて、教わったように思う。ギフトを受け続けていると思う。

私が今が何ならか関わる人に対する姿勢の奥にある愛は、ここからきているのだろう。

それにしても、今日も下痢をしてお腹が痛い。

そろそろこの自分の体質を感じ、自分にあうものを取り入れていきたい。

2021年9月4日の日記より

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