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日記「あじわい」

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藤子・F・不二雄SF「気楽に殺ろうよ」から考える「性欲」や「セックス」に関する価値観#267

藤子・F・不二雄の「気楽に殺ろうよ」。

これがめちゃくちゃ面白い。あらゆる価値観が変わってしまった世界が描かれる。

そのうちおもしろいのが性欲と食欲の価値観が真逆なこと。

「性欲」と「食欲」の価値観が逆転

逆転といっているのは、現代社会において、「性欲」は秘め事になり、「食欲」が開けっ広げになっている。

しかし、本作では、食欲が秘め事になり、性欲が開けっ広げになっている。

その理由も理にかなっている。

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「食欲とはなにか。個体を維持するためのものである!個人的、閉鎖的、独善的、欲望といえますな。
性欲とは。種族の存続を目的とする欲望である!公共的、社会的、発展的、性格を有しておるわけです。」

本当にぐうの音も出ない。笑

このような価値観になっていてもおかしくないにも関わらず、我々が生きる現代社会はなぜ本作と真逆の価値観になっているんだろうか。

食欲に関しては、それこそ藤子・F・不二雄の「ミノタウロスの皿」を読んで、昨日のジャーナルで書いたが、性欲やセックスについても考えてみたい。

近代になってタブーとされてきたセックス

我々は無自覚のうちに、実に社会からの影響、刷り込みを我々は受けている。

あらゆることがいえるが、性欲やセックスに関してもそうである。

先日、ボーヴォワールの「老い」で、20世紀は、老人や子どもや障がい者のセックスがタブーとされていたという。

過去形で書いたのは、私が障がいに対する考えは今は随分変わってきたように思うためであるが、だが、老人はいまだにタブーと思われている部分がいまだにあるかもしれない。

その理由の1つとして、ミシェル・フーコーの「性の歴史」の中で、国家の思惑が大きいと指摘している。

近代国家において、人口の質と量の管理は必須事項であった。人口の質と量=他国と比べて国の繁栄に大きいものだからである。

私も行政職時代は、地方自治体であっても人口が企業でいう売上みたいなものであった感覚がある。本当に多ければいいのかという疑問をもっていた。

この国の繁栄のために人口管理ゆえに、「産み育てる性が最高の価値」という価値観がうまれ、生殖につながらない性は否定された。

結果、老人のセックスに対して否定的なものになっていった。

歳をとれば性欲がなくなるというように思われている方が多いが、個体差があるものの死ぬ直前まで性欲はなくならない。

私の好きなカウンセリングの神様、カール・ロジャーズも晩年、70歳ころになってセックスに目覚めた。

劇作家ゲーテもSF作家ウェルズも、死ぬ直前までセックスをし続けた。

そう思うと、老人に対しての性ももっと社会として受容されていってよいはずである。

恋愛と結婚の同一化

セックスに関して、結婚という概念、制度は外せない。

現代社会は、結婚するとパートナー以外のセックスは許されない。

1990年代くらいからポリアモリーという言葉が生まれはじめてはいるが、基本的にそういった価値観にある。

しかし、これもはたして本当にそうなのであろうか。

結婚という概念、制度は人類の歴史でみれば深いわけではない。

1つの説には、ホモサピエンスが定住しはじめてから結婚ができたとされている。

定住以前には結婚がなかった。

それまでは、人間も他の動物と同じように、セックスをして、子どもができたら一緒に育てるが、子どもが自律できるようになると、離れて、また別の人と関係をつくる。

生涯で5〜6回こういったことを繰り返す。

今もインドネシアの一部の民族もそうであるそうだ。

それが定住しはじめると、村ができ、誰が誰の収穫物なのか、所有の概念が生まれる。

そして、自分が死んだときには、その所有物を誰に継承や分配するかも必要になる。

こうしたことに対応するかのように結婚が生まれた。つまり、正式に所有権はこの子に渡りますよという今で言う法律婚の原型ができた。

しかし、このときも結婚と恋愛というのは別々のものであり続けた。

その後も貴族同士の結婚など、結婚は自由にできるものではなかった。恋愛は自由に行うものであった。

社会が進み、徐々に、自由に結婚する相手を選べるようになったという土壌もあり、恋愛=結婚という同一化した価値観が生まれたのは、200年くらい前の小説から広がったという説もある。

そう思うと、結婚によりセックスをする相手を限定することは、実は人間の本能を抑圧されているのかもしれないわけだ。

抑圧された性欲という現代社会のシャドー

実際、実存主義のサルトルとパートナーのボーヴォワールは、事実婚をしているにも関わらず、他の方とのセックスをし続けた。

「僕たちの愛は必然だが、偶然の愛を知る必要がある」

といって。

実存主義は、個人の「自由」を実現しようとしていることから、結婚により制約を受けることは息苦しいことと考え、サルトルとボーヴォワールの思想が合致してパートナーとなっている。

カール・ロジャーズも晩年奥さんがいながら、他の方との性交渉をしたことに関して、トランスパーソナル心理学でも有名な諸富先生は、著書「カール・ロジャーズ入門 自分が自分になるということ」で、このことについて、

性の抑圧を解放したことが、ロジャーズ本人が、自身が自身になっていく(自己実現ないし、真の自己実現を迎えるために自己超越段階にはいる)ために必要なのではなかったと解釈できるのではないか、と述べている。

心理学の中で、抑圧された欲求というシャドーを、フロイトやユングをはじめ、研究されてきた。

それは個人の意識、個人としての要因で抑圧してしまうという個人発生(ontogenesis)から、集合的意識、社会規模、文明規模で抑圧してしまうという系統発生(Phylogeny)があり、もし現代に「性の抑圧」があるのだとしたら、それは間違いなく個人レベルではなく、集合的意識として社会にとってのシャドーと言えるのかもしれない。

何をもって道徳観、倫理観とするのか

パートナー以外とセックスするなんて倫理観がない。

との声がきこえる。

私もよくわかる。

これは、私がパートナー以外の人とのセックスを容認すべきだという主張がしたいわけではなく、そもそもその倫理観も、所詮我々が生きた社会の文脈、社会の価値観から影響を受けた産物であるということを言いたい。

生きた時代、生きた場所が異なれば、別の道徳観、倫理観が生まれて当然である。

「気楽に殺ろうよ」の価値観、道徳観、倫理観をもっていてもおかしくないわけだ。

そう思うと、その倫理観も本当にそれでいいのだろうか。
と、シンプルにそう思うのである。

ローレンス・コールバーグの道徳発達の理論を補助線にすれば、道徳、倫理感というものは、発達していく。

自己中心的な「前慣習的段階」から、社会の道徳にあわせる「慣習的段階」、社会の道徳の不備を批判し、個人的な理念に基づいた「後慣習的段階」と。

そして、コールバーグは言及していないが、他の発達理論を応用すれば、「後-後慣習的段階」へと発達し続ける。

そう思うと、私はもう少し、歴史、国際政治、人類学などあらゆる観点から今私たちが抱く価値観、世界観がどのような影響下のもと生まれたのか、みていきたいと思う。

そして、その上で自分自身の思想を成熟させていきたい。

2021年9月8日の日記より

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