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日記「あじわい」

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なぜ私は日記を書き、日記を公開するのか #1

あじわい

ついに日記を公開していくことにした。
改めて日記を書き始めた経緯と公開に至る今の気持ちを残しておきたい。

もともと日記(リフレクションジャーナル)を書き始めたきっかけは、知性発達学者の加藤洋平さんから勧められたことだった。半年間私自身の知性発達に向けて、自己認識と世界認識を拡張していきたいと目標があり、そのためのプラクティスだった。

はじめてみると気がついた。
この小さな書斎に、1日30分程度、静寂の中に身を置き、
あふれでるものを言葉にしていくことで、認識を拡げること以外に、私は「今をあじわっている」。

1日を通じて、私の内面でも外の世界でも、大小色んなこと変化が起こり、
いくつもの瞬間で積み重なっている。

どんなことにも肯定的な側面が眠っている。
あなたと話をした時間、出会った本、見た景色、耳にした虫の鳴き声、
何気ない日常の中から、大切な「何か」に気付くことで、今を味わっている。

日記を書くことはその味わう営みそのものである。

では、なぜ公開するのだろう。
公開することで起こりうるかもしれない変化に喜びと恐れがある。
この気持を残しておきたい。

喜びは、あるがままの自分をさらけ出すことで、
どんな人といようがどんな状況であろうが、より自分が自分でいられやすくなる気がする。
コーチ・カウンセラーという仕事柄、ロジャーズの自己一致が重要なのだ。
日記を公開することで、よりあるがままの自分でいられる気がする。

そしてもう1つの喜びは、私の知らないところで、
この言葉を通じて何か想像もしないことが起きているかもしれないと思うこと。

私は、この日記を通じて誰かの役に立ちたいと思っていない。
この日記は、私が私のために、今を味わうために書いているものに過ぎない。

しかし、奇妙なことに人間は意味を構築する生き物なのである。

先日、友人が私の日記を見たいと言うので見せた。
なんでもない文章を書いているなと思っていた私に反して、友人は猛烈に感動してくれた。

誰かのために書くブログならわかる。
でも、誰かのためでもない自分のために書いているただの日記が
誰かの心を打つなんて考えもしなかった。

彼は彼なりに意味を構築したのだ。

思えば「アンネの日記」で有名なアンネは、自分の日記がまさか公開されるなんて思いもしなかっただろう。まさか自分の言葉を通じて、世界中の人の心を打つなんて思いもしなかっただろう。

宮沢賢治も、多くの作品が彼の死後、友人が出版した。
「雨ニモマケズ」は、出版のために書いたものではなく、
自分の手帳に書いたメモ書きのようなものの一部なのだ。

ここで言いたいのは、私がアンネや賢治のような文才の持ち主だなんてことではない。
私もあなたも含め、どんな人であろうと、自分の想像もしていないことが世の中に起きるということなのだ。

あなたの意図していないことで、気付かない誰かを救っていることはきっとたくさんある。
逆に、自分の意図していないことで、気付かないところで誰かを傷つけているのこともあるのかもしれない。

それも理解した上で、未熟な私が何か役立つなんて思いもしていないが、
きっと誰かが何かを感じてもらえたらと思い、公開したい。

一方で恐れもある。
これを公開することで、誰かを傷つけてしまうかもしれないことだ。
自分の意図とは正反対のことも起こるだろう。

それをある程度理解した上で、当面は、その日に書いた文章をそのまま載せるのではなく、
数日置いて、ブログには載せていくことにしたい。
また、私が書いている日記も、友人たちとの守秘義務の範囲もあるので、
すべてがすべて載せず、載せて大丈夫な範囲を可能な限りで載せていきたい。

また、もう1つの恐れは、公開することで、自分のための日記でなくなってしまうことである。
誰かに言いことを言ってやろうなんて気持ちが芽生えそうだ。
あくまで私は、私のために、今をあじわうために書いている。
それを忘れないためにも、この日記は、「あじわい」というタイトルをつけることにした。

あじわいは、「今を味わう」ための取り組み。
すべてのことには肯定的な側面が眠っていて、味わい深いもの。
私が、何気ない日常の中から、大切な「何か」に気付くことで、今を味わっていく。

私の私による私のための日記ですが、それでも何かあなたにも感じることがあれば幸いです。

2020年12月15日
No1 なぜ私は日記を書き、日記を公開するのか

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