昨日は私の中の虎が出てきたこともあり、中島敦の「山月記」を久しぶりに読んだ。
今読んでも、いくつも李徴を自分に重ねてしまう。
無職の頃、何度も同じ夢を見ていた。自分が公務員に戻る夢だった。
公務員も立派な仕事だが、どうしても夢の中では、なんで自分が命令に従わなければならないのかと、苦痛の日々だった。
李徴が抱く臆病な自尊心、尊大な羞恥心は痛いほどわかる。
無職から再び働き出そうと思う時、自分のプライや羞恥心が邪魔して働けなかった。
プライド、羞恥心を手放したくても手放せない葛藤の日々をすごした。
9ヶ月くらいかけてようやく徐々に手放すことができはじめた。
物事の捉え方もずいぶんと変わり、生きるのがずいぶんと楽になった。
ただ厳密には完全に手放すことは難しいのかもしれない。
今でも小さくこの虎はいて、うまくコントロールできるようになっている。
しかし、自分の中の虎が出てきた。
昨日は自分が得意領域にしている部分で、
他者からネガティブなフィードバックをもらうことで、
恥ずかしながら、自分の自尊心が許さなかったようだ。。。
山月記にはこんな一文がある。
『人間は誰でも猛獣使い』
人間は誰もが猛獣を飼っており、人間である限り消えず、うまく扱わなければならない。
自分の中の虎は、どんなタイプの猛獣で、どの獲物が好物(どういうときに、その虎がよく出現するのか)か、この理解は重要だろう。
好物がわかれば、セルフトークなりで虎を静まらせるなど、対策が打てる。
私の中の虎は、李徴と同じく尊大な羞恥心と臆病な自尊心は少なくとも飼っている。
そして、この虎が食いつく好物は、たくさんある
・自分の得意領域でネガティブなフィードバックをもらうとき
・自信がないと思ってしまっているとき
・相手が自分を見下していると感じたとき
・短期的な視点でしか見れていないとき
・取れている他者視点がすくないとき
これ以外にもきっと気付いていない部分も含めてたくさんあるのだろう。
そしてこういう場面では、相手のニーズ以上に自分の知識や経験を見せびらかすという噛み方をよくしてしまう。
能ある鷹は爪を隠すというが、私の中の虎も牙を隠してほしい。
そしてたとえ好物が現れても、それは虚構であると言い聞かせたい。
その時美味しく感じるかしらないが、すぐに身体に異変が起きるのを忘れたのか。
大丈夫だ、安心しろ。
となでてやりたい。
この虎を猫くらいかわいがって懐かせてやりたい。
全然話が変わるが、この山月記というタイトルはすごく好きだな。
中島敦さんは、人虎伝と直接的な表現をするでなく、
山月記とつけるあたりに、この李徴の心理描写が出ている気がする。
意外にこういう表現方法も、コーチとして必要だったりする。
メタファーで表すから、うまく話がしやすかったり、感覚的な話をもっとつかみやすくなったりする。
このあたりも勉強になるな。
さて今日はお腹が痛い。早く寝よう。
2020年11月23日の日記より
2020年12月19日