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日記「あじわい」

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今日は、会いたかったとある翻訳者の方にお会いして、本当に嬉しい時間だった。

2人で2時間、ゆっくりとした時間を共にさせていただいた。

今の自分があるのも、その方の存在が大きかったと思っている。

そう思うと、本当に感謝でいっぱいで、それを言葉にできた感覚はほとんどないが、言葉以外の部分で伝わったようにも思う。

この2年ほどの探求を振り返り、私の好きなウィルバーにしてもジョアンナにしても井筒俊彦にしても、同じようなメッセージをくださっているように感じている。

そう思うと、私たちは何千年と生きてきているが、そこで起こっていた成果を十分に受け取っていなかったのではなかろうかと思う。

身近な例でいえば、ウィルバーの書籍にしても、絶版となったものが、ここ数年で復活する現象はその典型例に思う。

50年前や100年前の書籍が古いなんて、決して言えるものではない。

本質的な変化は、もっともっと、深い部分で起こるのだ。

私自身は、残念ながら、井筒俊彦や西田幾多郎のような高度な知性は持ち合わせていないこともあり、私にできることは、それを現代に問い直すことではないかと最近思うようになった。

そのために、私にも、翻訳、という大業を担ってみたいと。

あるいは、それを読者という立場から私なりに言葉を深化させ、現代へと問い直し、入門となるような架け橋を。

それが5年かかるか10年かかるか。

わからないが、現代の日本に、確かなものとしてバトンを受け取りたい。

そうやって、偉大な叡智の伝統に連なってみたい。

そう思う。

それに向けては、私の語学力の問題はあるが、それ以上に、私の存在そのものが問われることになるだろう。

あとがきに至っては、何をどう語るかだけでなく、何をあえて語らぬかも含め、私の存在からにじみ出る思想がそこには現れるだろう。

このジャーナリングは、それに向けても開かれている。

ジャーナリングを、

より私の体験からくる言葉で。

より私の内なる声からくる言葉で。

より生血がほとばしるような、そんな言葉で。

ジャーナリングをしていきたい。

そう思わせていただいたのも、今日会った翻訳者の方の存在が大きい。

だからこそ今日は、自分にとって、とても意味深い日だった。

「賽」

2022年2月1日の日記より

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