友人と一緒に新幹線で東京へ向かう。
車内で待ち合わせするが、号車は同じだが席は遠かった。
指定席を隣をとりあったと思ったが、全く違うところをお互い押さえていていた。
朝6時半の新幹線で空いていることもあり、私が指定した席とは違うが、友人の隣に座った。
すると、車掌さんが巡回。私に声をかける。
「乗車券を見せてもらってもいいですか?」
この席は空席なはずなのに、私が座っていることを把握した上での声掛けだろう。
その際、私は何を思ってか、座席を勘違いしてましたというような発言をしてしまった。
「席変更しておきますね」と車掌さんは手続きをしてくれた。
なぜ私は素直に「すみません、本来あちらなのですが、ここに変更できませんか?」
と言えなかったのだろう。軽い嘘をつき、演じる自分自身が恥ずかしくなった。
思えば、私は昔から卑怯な自分がいる。
子供の頃からいたずら好きで、自分がしたことを知らないふりして咎められずに過ごしてきた。
何度も何度も、自分の過ちを素直に受け入れることを避けてやり過ごしてきた。
そんなクセが今になっても残っている。
車掌さんからすれば、席を変えていることなんてよくあることだろう。
テイク2をやるなら、むしろ変更のお願いを私から声をかけにいきたい。
すると、仮に車掌さんが見過ごしたとしても、カバーでき、仮にこの席を誰かが予約しても混乱せず済むこともできるだろう。
こういった日常の小さな言動の積み重ねで、自分はできている。
セッションだけではなく、365日コーチでい続けるために、素直に生きていきたい。
そんなことを朝一感じながら、今日は終日、私のコーチの師匠の1人、大樹さんのクラスを受けていた。
クラスの中で誰かが質問したことに対して、ぱっと思い浮かんだことを整理もできていないまま私は手を上げて質問した。話しながら、浮かんだ言葉をその場で話ししながら質問をした。
周りからみると、単なる質問に見えるだろうが、私にとってはすごく意味深い行為だった。
というのも、これまでの自分なら、質疑の場面では、ぱっと思い浮かんだことを質問しない。
それを事前に自分なりに考察して、仮説をいくつか出してから質問する。
それはそれでいいことなのだが、それ以上に、みんなの前で恥をかきたくない自分がいる。
まとまっていない質問をし、仮説ももてていない中で質問するなんて、恥ずかしいと思ってしまうが、そんなことよりも、今この思い浮かんだことをこのタイミングで言う方が、みんなのためにもなると思い、手をあげて話ができた。
何か改めてこう書いてみると小学校みたいな稚拙な感じもするが、自分としては、これを大事にしたいと思っていたことだから嬉しかった。
自分の中に棲む羞恥心という猛獣が小さく、オープンにしていく、みんなのためになっていく、思ったことを自然と言っていく自己一致した感覚、この感覚を大事にしていたい。
さあ明日も一日クラスだ。今日はぐっすり眠ろう。
2020年12月05日の日記より
2020年12月26日