前回、ダンテ「神曲」地獄篇を読み終えて、今日は煉獄篇を読み終えて、湧き起こったことを残しておきたい。
(前回の記事)
CONTENTS
煉獄とは
煉獄とは何であるか。その定義について、第一歌にて明確に歌われる。
煉獄というのは、魂を浄化させる場所になる。
地獄と天国の中間に位置し、生前の罪を償い、天国へと昇る場所。
地獄は罪ゆえに肉体的な苦痛を感じるように描写され、煉獄は魂のみが、その浄化のために行われるように描かれている。
こう思うと、鬼滅の刃の煉獄さんは、まさに鬼の魂を浄化するためにいるのだろう。
ところで、煉獄というのは、実は聖書に載っていない。
歴史家ル・ゴフの煉獄を研究して「煉獄の誕生」を著し、その中で、purgatorium(煉獄)というラテン語は、12世紀末まで名詞として存在しなかったと述べている。
つまり、煉獄というのはなく、ダンテが明確に描くことによって生まれたものであった。
もちろん、アウグスティヌスや「使徒信経」に、煉獄という言葉を使わないが、死後に霊魂が地獄とは異なるところで待機しているという考え方は述べられていた。
しかし、これらを想像性豊かに見事に描いたのはダンテであり、彼の革新的な試みがここにある。
なぜ煉獄を描写したのか?
では、なぜダンテは天国と地獄の2つから、もう1つ加えるような形で煉獄を描写したのか?
キリスト教的な罪と罰、善悪二元主義をどのように考えているのか?
また地獄は本当に愛と言えるのか?
このあたりの問いが生まれる。
これに対する答えは、いくつもあるようだ。
意味を広げることはいいことであるため、いくつもあっていい。
私は、今道先生が述べていたことが印象的だった。
煉獄と地獄の違い
さて、煉獄と地獄の違いは何であるか。
一言でいえば、絶望か希望かになる。
地獄篇にて、地獄の定義を
「地獄とは、一切の望み、希望のないところである。」
と書いた。
一方、煉獄には希望がある。煉獄は、山を登りながら、最終的に火をあびて浄化する。その先は天国に続く。
天国へ向かうことができる希望がある。
このことについて、今道先生は、詳細を以下2点からあげていた。
①星の有無(煉獄は星があり、地獄には星がない)
②海があること(煉獄は海があり、地獄には海がない)
これらが、何を意味するのか。
それぞれのイマージュについて、今道先生は次のように語る。
個人的には、ユング心理学や夢分析、井筒俊彦、曼荼羅、神話研究などに触れていくことで、元型、象徴が秘める人間の無意識への影響から、このあたりの意味するところは大変興味深かった。
星の象徴的意味
星は、多様な象徴としての意味があるが、ここでは大きく4つ挙げている。
①「導き」の象徴
海に航海に出ると、星だけが導きの頼りになっていた。
②「希望」の象徴
希望の星という表現があるように、希望をしめす。
③「理想」の象徴
あるグループの将来の希望を託されているような人をスターともいう。転じて、哲学の世界では高い理想を示す。
④「愛」「憧れ」の象徴
星はプラトンのときより愛し憧れる人の瞳、愛し憧れる人の心の輝きと結び付けられた。
実際、煉獄では、最初に金星の輝きが歌われる。金星は、明けの明星、宵の明星と言われ、早朝や夕刻に輝く星をみて、美しさが人を妙なる愛の心に誘うこともある。
以上、「導き」「希望」「理想」「愛・憧れ」という4つないし5つの意味がある。
海の象徴的意味
もう1つ、煉獄には海の描写がある。
地獄は、地下の閉処で、階層があって視界が遮られ、はるかな眺望、展望はない。
一方、煉獄には、広大な海がある。
この海にもいろんな象徴的意味があるが、1つは、海はある意味で冒険の可能性を示している。
煉獄は、山を成し、魂はその山を登って天国の入り口に近づく。この道のりは、自分の魂を浄めながら難路を介して自己を高めていく冒険といえる。
現実世界は地獄か煉獄か天国か
これを踏まえて、今道先生、さらっと、こんなことを述べている。
これは本当にそうである。
思えば、私は石垣島で本当に綺麗な星空と海を見ていたが、あれはまさに魂が浄化されていったかのようであった。
石垣島は煉獄なのか。
煉獄の中でも天国に近い地上の楽園かと確かに思える。
それに比べて、都会では星がほとんど見えない。どこか、息が詰まる感じもしてこないでもない。
もちろんこれは、あくまで、希望の象徴として星をいっているだけであり、自分の心の中に輝くものがあれば、それが希望となろう。
だが、誰もがそのような状態で居続けることができるものでもないだろう。そう思うと、都会というのは、本当に地獄にいきつつある側面があるように思える。
地獄・煉獄・天国はあるのか?
今回、今道先生の講座を受ける中で、どうしても考えておきたいことは、地獄や煉獄や天国があると思うのか、その実在性についてである。
現代の多くの感覚でいえば、それはないの一言で済む。
そんなことは、死んだ後のことであって、人間の知性が及ぶ範疇を超えている。
全くもってそのとおりだ。
しかし、それで思考がとまっていいのだろうか。
現代は、目に見えるもの、数字で測れるものに引力が大きい。
「大切なものは目には見えない」というが、目に見えないもの、数字では測れないものが大切であることを、わたしたちは誰もが感じているはず。
では、目に見えないものについて、どこまでを信じて、どこまで切り捨てているのだろう。
そもそも、「ある」(=「実在」)とはどういうことなのだろう。
このことを考える必要があることを思えば、地獄、煉獄、天国が実在するのかも、考えなければならない問いに思うのだ。
実在の区分的なこと
では、実在するとはどういうことなのか。
このことをとてつもない長い歴史を通じて、色んな哲学者たちが考えてきた。
だが、このことについて語れば、それだけで何十時間も経ってしまうため、ここでは、今自分の理解しうる範囲で、自分が大切にしたいことを、なるべく端的にしてみたい。
わたしたちが「実在する」といったとき、それは何処において「ある」としているのだろうか?
以前、井筒の「意識と本質」の読書会にて、探求仲間が整理してくれた区分を挙げてみる。
①五感をつかって物理的に触れられるもの。
例:目の前にある、本、パソコン、など
目で見えて、実際に触れることができる。モノとしてある。
②形には見えないが、モノに対してハタラキ(働く力)としてある。
例:自転公転、引力、など
モノの運動などを観察して知ることができる。
③形はないが、人と人が出会うなど、特別な関係が意味を持つ時、それはデキゴトとしてある。
例:明日の9時のミーティング 自動車の事故 など
④万人が共通して、頭の中に描くことができる”概念”の世界にある。
モノのように具体的形をもたないが、話をすると他者にその意味が通じ、かつ、特定の結果を導くことができるなにかとしてある。
例:三平方の定理 物理法則を表す式 権利 契約 など
⑤個人的にしか感覚できない、「自分だけ」の世界にある。
例:実際の感覚、感情、意志 など
こうなると、本当に何をもってあるとしているのか。非常に興味深くなってくる。
たとえば、現代の多くは、心は構成概念としてあるに関わらず、私たちはあるとして疑わない。
だが、神はないという。
それは、所詮その人がいる構造、つまりその人が所属する社会集団、民族、国、時代が信じているものを無意識のうちに信じているに過ぎないのではないだろうか。
事実探求と意味探求
では、実在について、どのように捉えたらいいのだろうか。
ここで、大切にしたいことは、事実探求と意味探求をわけることにある。
事実探求とは、それが事実なのかどうか。
たとえば、太陽はなぜあのように爆発するのか。
だがそれとは別に、私たちには意味探求がある。
太陽が昇ることが、私たちにとってどのような意味があるのか。
事実探求も大事であるが、それは時に誰か(科学者、研究者)にお願いすることはできる。
だが、意味探求は自分でやらざるを得ない。
たとえば、以前「輪廻転生」について日記に書いたことがある。
輪廻転生を信じない、馬鹿馬鹿しく思う人はいるだろう。
たしかに、それは事実探求としてはそもそも難しい領域なのだと思う。
だが、意味探求は残っている。
そして、自分が実存的な危機に、とても苦しくて逃れれない宿命を抱えた時に、その意味がとても大きなものとして、わたしたちを救うときがある。
だから、意味探求はし続けたいと思うのだ。
地獄・煉獄・天国の実在性
それを踏まえて、地獄・煉獄・天国の実在性に戻りたい。
事実探求としてはあるかどうかは難しいだろうし、それは死後にわかることとして済ませていいように思う。
だが、意味探求として考えれば、
「地獄とは、一切の望み、希望のないところ」
その意味で、現代の中に地獄は存在するといえる。
時間的・空間的にはなかったとしても、
観念として実在し、意味の世界には実在するといえる。
そう思うと、神曲をみると、たくさんの問題提起をしてくれているように思う。
ダンテの神曲は時代を超えて、今なお生きづづけている。
2022年8月13日の日記より