コーチング、カウンセリング、心理療法、様々な手法に分かれている。
今日もとある療法が身になっているか、自分のセッションを見てもらいフィードバックをもらった。
私のセッションは、教えていただいた型どおりしていない。
自由にしている。
これを守破離の「破」と捉えるのか、単純に「守」を守れていないと捉えるのか、どう判断できるだろうか。
指導者の視点からは、守が守れていないと捉えていた。
私の実演後、立場を逆転して、全く同じ内容で実演していただいた。
すると、そこには明らかに私のセッションの結果に違いがあった。
どうやら私はこの療法において、「破」はおろか、「守」を守れていないようだ。
改めて思うが、守破離の「破」と捉えるのか、「守」を守れていないと捉えるのか、どう判断できるだろうか。
歌舞伎役者18代中村勘三郎氏は、型破りと型無しという表現をしていたが、この違いをどう判断できるのだろうか。
1つは、「型」の「意味」にあるように思う。
「型」を学び、実践する上で、それがどういう意味があるのか、ここを理解できているかが重要だろう。
高校時代のサッカーを思い出す。
とても良い監督で、変わったトレーニングが多かった。
例えば、ボールを足ではなく手もち、手でパス回しをする練習だった。
この練習の意味は、仲間とのアイコンタクトがとれているか、この後の展開のイメージが共有できているかを確認して、鍛える練習だ。
その意味を理解せず、ただ同じように練習しても力はつかない。
意味がわかっていれば、自分なりに練習をアレンジもできる。
仲間と十分に阿吽の呼吸でプレーできるようになったら、この練習の頻度を落とすか離れてもいいのかもしれない。
こうやって「型」には意味があり、それを十分わかって、その意味の文脈から自分ができるようになっていれば、守から破に移っていいと言えそうだ。
では、今回の自分は、どうして型どおりやらず、自由にしてのだろうか。
理由はいくつか思い浮かぶ。
1つは、破として捉えているからだ。
型の意味も確認できているが、その意味の解像度が違ったことに気がついた。これは、破に移ったから気づけた解像度かもしれない。
そしてもう1つ大きいものをあげると、自分には能力があるという慢心が、意味の解像度が粗いままに、わかったつもりを作り出しているように思う。
私には知らない学問や世界がたくさんあるが、ことコーチングについては、既にプロとして独立して生計を立てているだけの力量がある。
ビジネススクールを始め、これまで色んなスキル開発もしてきて、自分なりの経験学習のコツも掴めている。
そんな気持ちが、小さな慢心が浅い理解にとどまることを生んでいる。
さらにこの慢心に連動する形で、どこか自分がまだ破の段階にいけていないという羞恥心があって、使いこなせている感を出そうとしている。
何も恥ずかしがることはない。自分にはできている部分はたくさんあるし、たとえそれができていなくとも、誰もができない段階から練習してできるようになっていっている。
そして、慢心は戒めたいが、過度に批判する必要もなく、もう1歩問を投げるだけで思考が進められる。
深い振り返りとともに、今一度、型を徹底的に実践してみよう。
2021年2月5日の日記より
2021年2月6日