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日記「あじわい」

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アカデミックを重視しても、論理や科学は人間が作り上げた仮説体系にすぎないという認識#84

前野隆司さんの著書「思考脳力のつくり方」の中で、論理や科学は万能ではない説明をわかりやすくしてくれている。

原因と結果、入力と出力、内面と外面も、定義しているに過ぎない。
本来複雑な現実世界では、無数といえるほどの多数の原因のもとに、無数といえるほどの様々な現象があり結果として生じている。

これを人間の単純な頭で理解するために、定義という仮定に基づく単純化・モデル化を行い、わかりやすくしているのが論理の正体になる。

科学の再現性も、厳密には再現できない。森羅万象、時間は一方向に流れ、様々な要素が絶えず複合的に相互作用しているため、ある場所である時間に起きたことは、本来二度と再現できるものではない。

再現できるのは、単純化したモデルだ。科学は、複雑なネットワーク状の並列分散的世界から一部分を切り取って単純化しているに過ぎない。

1+1は2で間違いないんだということでさえ、それが普遍的なものだと思うことは、根本的な問いまでたどり着いていない。

自然科学にしても社会科学にしても、根本的な問いをたどると、「我々は世の中をどのように認識することができるのか」という認識(epistemology)と、「社会がどのように存在しているのか」存在論(ontology)をどのように考えるかに依拠する。

仮説検証する方法も、基礎づけ主義の立場からすると、私たちは客観的な事実があると捉え、実証主義として仮説検証を数量的なアプローチをより活用する。

反基礎づけ主義の立場からすると、事実は人々の解釈によってできていると捉え、解釈主義として、客観的なデータは重要視せず、人々の言説等に着目する。

研究もこのように認識論と存在論をどう捉えるかで調査手法がずいぶん変わってくる。

そして、認識論と存在論も仮定をおいてスタートしている。

研究のテーマを決め、研究仮説を出し、研究手法を決めて進めていく一連の流れを考えても、絶えず研究者の価値判断が入っていることがわかる。

そう考えると、科学は万能ではない。自然科学ならまだしも、社会科学や人文科学になればなおのことだ。

もちろん無意味なのかというとそうではなく、仮説をもとに成り立っているという前提を押さえて活用することが重要になるし、その研究結果はどのような立場でどのような価値判断をもって行っているかをセットで理解することが重要だろう。

私も含めてだが、多くの人が科学的な根拠があると納得してしまうところがある。

書きながら思い出したことだが、先日も、組織エンゲージメントのセミナーで、講師が研究者であり、科学的な根拠をもとに話をしていた。

参加者の方の感想で、「言っていることは当たり前なはずなのに、こうも説得力が増すんですね」と言っていた。

この発言、どこか科学的な根拠があると、良くも悪くも信用してしまう典型例だろう。

仮説の上に成り立っているという前提がないと、科学的な根拠を疑うことをなくしてしまい、挙句の果てには科学万能主義になってしまう可能性もある。

私が探求するインテグラル理論も、先人たちの研究を統合させたものとして成り立っているが、あくまでケン・ウィルバーというたった1人の人間の仮説で提唱したものに過ぎないと言える。

こう書けば、そもそも科学、理論とどう向き合っていくのかは多元的な認識がもっと必要に感じる。

その点、認識論としてロイ・バスカーの批判的実在論をもっと理解したい気持ちになるし、最近で言えばメイヤスーやマルクスガブリエルの実在論ももっと探求したい気持ちになる。

2021年3月7日の日記より
2021年3月8日

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