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日記「あじわい」

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先日加藤さんとの対話の中で、自分が自分の名になっていくという話があがった。

そういえば、以前「阿世賀」という名前を調べた時があった。

三文字で意味するところがわからないので、おそらくだが、1文字1文字の意味からこの3文字の名をつけたのではないかと思っている。

「阿」
「阿」は、丘とか、くま(山や川の曲がって入り組んだところ、奥まって隠れた所)を意味する。

「世」
「世」は、一生という意味がある。成り立ちとして、十を3つ合わせて三十の意味を表す。
ひいて、三十年、一代、世の中、一生という意に用いる。

「賀」
「賀」は、祝う、よろこぶという意味がある。成り立ちとして、貝と加からなり、たからを贈って祝うという意味を表す。

以上のことから「阿世賀」には、奥まった所で、一生涯祝う、あるいは、世代をまたいでよろこびが続いていくような意味があるのかもしれない。

「淳」という文字は、今まで調べたことがなかった。
調べてみると、「情が深い」「ありのまま、素直、純粋」という意味があるようだ。

なんとも素敵な。今私が大切にしているものそのものかもしれない。

父と母にきくと悩みに悩んでつけたとのこと。

そういえば以前、社会人なりたてのころから付き合いのある友人と久しぶりに話をした際、「打算的なところなくなったね」と言われた。

打算的1つとっても、最初から今のようではなく、打算的とそうでない対極を両方行き来した上で、それを弁証法の方に統合してあるように思う。

これは何においても言えそうだ。
真にそれを体現するには、今体現しているものの一つ上の次元で体現することが重要で、それを理解するには、対極にあるものをあえて引き受け、その上で統合させていく。

その意味で、情が深いも、情が浅いというものを意図して実践することが、
真に情が深いものと出会えるように思う。

私自身が私の真の名になるまで、生涯をかけて探求してみたいと思う。

2021年3月31日の日記より
2021年4月1日

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