時刻は14時15分。
今朝は6時に目が覚め、散歩をしたあと映画を1本と本を読み、ヨガスタジオに行ってから少し長めに90分のヨガを行う。その後スーパーに行き食材を購入後、洗濯をまわし、ランチを作って食べ、昼寝をとり今にいたる。
リフレッシュした気持ちで、昨夜、親友から受けたコーチングと今朝方読んだマルクス・アウレリウスの自省録から、いくつか思い浮かぶことがあって、書き出しておきたい。
ここ数日、なにかやる気にならず、書斎にも入らず、寝室で好きなお笑い番組を見ては寝てを繰り返していた。
このあまりにも怠惰な自分に嫌気がさしてしまうほど。
それも寝てしまえば忘却の彼方へといき、繰り返す。
この惨めたる姿をなんとなかしたくそのことについてセッションをしてもらった。
まずもって、コーチである親友は、私自体にそのような人間味のある相談に、ある種の愛しさを抱いていただき、慈悲と安堵の表情で微笑んでいた。
それもそうだろう。
先日も、親友もいるとある場で、私がメッセージとして、「今日が最後と思って毎日を生きたい」と言っていた人間が、到底それに及ばぬ生活の側面があるのだ。
しがない人間である。
有り難い友のおかげで、今日から無事活き活きとした理想の生活になりつつあることを感じる。
動と静の統合、母性と父性の統合など、ここ長い期間、私の中のテーマでもある中で、なにかある種のストイックさ取り戻すことが必要ではないかと想い、マルクス・アウレリウスの自省録を思い出して今朝方手にとった。
今日はこの言葉を残しておきたい。
人格の完全とは、毎日を最後の日のように過ごし、激することなく、無気力にもならず、偽善をしないこと。
私もここ数日あったような無気力というか怠惰も、何もそんなことがないかのような偽善をしてはいけない。
その怠惰も、私の人格の完全に向けた大事な種なのである。
それをないかのように扱うでなく、友人に話すことによって、楽になっていく、受容されていく。
発達というのは、成長意欲をもって実践することと共に、パラドックスを内包するかたちで、今の自己を受容するということで、起こるものである。
このジャーナリングは、公開を始めたことによって、なにか偽善になっていないだろうか。
最近有り難いことに、このようなジャーナルからもDMを多くいただくようになって、自分のための日記であることを、改めて自己に強く問わなければならない。
私のこのような悩みに安堵する友人がいるように、私自身の弱みを見せていくことも、自己を超越したところでも意味があるのであって、もっとさらけ出していこうではないか。
マルクス・アウレリウスは、何度も何度も同じようなことを書いており、その苦悩が伺えた。
私自身も、他者と同じ人間であるのだから、人間の葛藤を出しながら、
マルクス・アウレリウスのように理想も言い続けながら生きていたい。
理想を掲げることは、今を生きるための指針になるのだから。
2021年4月2日の日記より