
ここのところ実家にいて感じることなのだが、一人暮らしより実家のほうが決められていることが多い。
食事の時間だったり、お風呂の時間だったり、起きる時間だったり。
厳密には別に縛られているわけではないが、私自身がせっかくご飯食べるなら家族でと思うし、せっかくお風呂を沸かしているならこの時間にと思う。
しかし、この決まりが逆に私の仕事をはかどらせてくれている。
一人暮らしで、一人法人である私は、本当に誰にも迷惑をかけずに好きに生活できるが、それが逆に非効率であることを感じる。
今日の午前中のMTGでも、とても興味深い言葉を聴く。
「戦略を出すことが、直感や遊びを失うのではないか」という声。
この言葉の裏にどんな思いや意味合いがあるのかは、この方を深く感じなければ理解できないのだが、私自身も、これと似たようなことを色んな場面で感じる。
たとえば、この日記を書いていてもそうだが、言葉にすることに、何かが削ぎ落とされてしまってしまう感じがある。
セッションにおいても、自分が問いかけてしまうことで、クライアントの今心の中で生成されていることの一部しか目がいかなくなるような感覚がある。
言葉にすることで、削ぎ落とされる不安がある。
それもそのはずで、諸行無常というが、世界というのは、静的なものはなく、動的なもので未規定なものである。
規定(言語化)すると未規定な世界の中のごく一部を切り出したに過ぎなくなる。
だから、規定(言語化)することに葛藤する。
では、規定すること、言語化することの意義は何なのだろうか。
今思うことは、そこをフレーム化、意識化されやすいことなのだろう。
その言葉に引っ張られ、適した解釈がしやすくなったり、定着に繋がる。
その意味から、戦略においても、抽象度が高いシンプルな言葉に規定されることによって、それが立ち戻る判断軸として機能する。自由度をもって、現場で細かく適応することができる。
このようなことから、不自由の中にある自由を感じた。
規定されたことによる不自由が、それは不自由ではなく自由になる。一見不自由に見えることは、逆に本質的に自由を与えてくれている。
一方、自由というのは不自由になっている。
自由や不安の哲学で出てくる、
・エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」
・キルケゴール「不安の概念」
・ハイデガー「存在と時間」
でいう自由というのは、本質的には不安なのである。
わけもなしに自由であること、無を前にすると自我は不安を呼ぶ。
規定していくことによって不安が減り、自由をもつことができる。
なんだろう。
例えるなら、牧場好きに使っていいけど、広すぎるとちょっとしんどくて、柵だけ作ってもらえると、その範疇で安心して色々できる。みたいな感じだろうか。
でも、この柵をどこにおくのか。
規定、言語化がどこまで適切に与えるが肝心のように思う。
余白をどこまで残すかとも言える。
私の今の実家での生活も、ある種ルール化されすぎていないから心地よくやれる。
今日の午前中の戦略は本当に素晴らしいものだった。
その戦略にある余白を、聴き手であるメンバーそれぞれも感じ取っていく、意味づけしていくその姿勢にも感動した。
2021年5月20日の日記より
2021年5月23日