youtubeを見ていると、たまたま2018年のタカラトミーの人生ゲームのCMを見た。
2018年私は何をしていたのか、そのCMの存在は知らず、初めて見たのだが、これがおもしろい。
本当に見事な作品。
最後のメッセージ「奇跡はめったに起こらない。」という、これこそ人間が都合のよいように認知している典型例だなと思う。
ここでいう奇跡とは、「親切にした人が会社の重役だった」という文脈での奇跡だが、他の切り口でみると奇跡の連続なわけである。むしろ我々は奇跡の中で生きている。
世界は無規定の中にあって、規定されたスナップショットを感じ取れているに過ぎない。
CM自体を非難しているわけではなく、制作者はおそらくそこまでわかった上で作っており(知らないが)、受け手がこのように多様な解釈をもたせるという意味でも見事なCMだと思っている。
それから、こういうのをみると、以前日記でも書いた気がするが、「情けは人のためならず」というその言葉、発想自体をある種反転させるようなことを問いかけたくなる。
この言葉は、「人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてよい報いとなって自分に戻ってくる」という意味だが、果たして本当にそうなのだろうかと。
バスで席を譲るという行為によって、おじいさんの助けになれた、感謝をされたことで温かい気持ちになる。これ自体、既にもう自分のためになっている。
利他とか利己とかわかりやすく分断した認知で、相互作用し続けているわけだから、すべて相手のためであって自分のためである。
もっというとここで言っている自分というのは何なのか。
たとえば、私もよくあるのだが、何かしらの見返りが自分ではなくとも、赤の他人でなく家族だったらどこか満たされている。
これはもはや自己が家族まで広がっている瞬間があると言えないだろうか。
この自己感覚は人それぞれで、というより発達していき、ジャン・ピアジェのいう自己中心性の減少が起きていく。
では、私は果たしてどこまでの人の痛みを感じられているだろうか。
と書いていると不思議で、CM1つとっても、思考は自分の興味関心へ結びつけていく。
これも私の認知に立脚して生み出されている。
2021年6月12日の日記より
2021年6月14日