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日記「あじわい」

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時刻は23時50分。

今日を終えようとしている。

今日から、長田弘さんの詩「深呼吸の必要」を読み始めた。

1つ1つを丁寧に読みたく、音読している。

冒頭はこんな言葉からはじまる。

きみはいつおとなになったんだろうか。

この問いは面白い。そもそもおとなとは何なのだろうか。

読み進めていくと、以下の言葉に出会った。とても好きな詩だ。

だけど、広い道はきらいだ。広い道は、急ぐ道だ。自動車が急ぐ。おとなたちが急ぐ。

広い道は、ほんとうは広い道じゃない。

広い道ほど、子どものきみは肩身が狭い。ちいさくなって道の端っこをとおらなえればならないからだ。

広い道は、子どものきみには、いつも狭い道だった。

きみの好きな道は、狭い道だ。狭ければ狭いほど、道は自由な道だった。

下水もあれば、きみはわざわざ下水のふちを歩いた。

土手を斜めに滑り落ちる道。

それも、うえから下りるだけなんてつまらない。逆に上るんだ。

走って上るなら、誰だってできる。きみはできるだけゆっくり上る。ずりおちる。

(中略)

子どものきみは、道をただまっすぐに歩いたことなどなかった。右足をまえにだす。歩くってことは、その繰りかえしだけじゃないんだ。

第一それじゃ、ちっともおもしろくも何ともない。
きみはそうおもっていた。

こんどはこの道をこう歩いてやろう。どんなゲームより、どんな勉強より、それをかんがえるほうが、きみにはずっとおもしろかったのだ。

いま街を歩いているおとなのきみは、どうだろうか。

歩くことが、いまもきみにはたのしいだろうか。街にショーウィンドウにできるだけすくなく歩こうとして、急ぎ足に、人混みのなかをうつむいて歩いてゆく、1人の男のすがたがうつる。その男が、子どものころあんなにも歩くことの好きだったきみだなんて、きみだって信じられない。

歩くことのたのしさを、きみが自分に失くしてしまったとき、そのときだったんだ。そのとき、きみはもう1人のこどもじゃなくて、一人のおとなになってたんだ。歩くということが、きみにとって、ここからそこにゆくという、ただそれだけのことにすぎなくなってしまったとき。

どうして私がこの詩を好きなのかというと、私はこの純粋さを大事にしたいからだろう。

今日夜に、今日で1年ご一緒しているクライアントとセッションしていた。

この方は、1つ1つの言葉をあじわっている。とてもピュアな方だ。

言葉も道と同じく、当たり前のように通り過ぎるけれども、その言葉1つ1つに、面白さがある。まるで子どもみたいに好奇心をもって終始対話している。

私もこんなふうに生きていたいと思う。

ウィルバーが発達をevolution(進化)とinvolution(内化)にわけているが、私のinvolution(内化)、つまり立ち戻るものは、自分の名前にある。

自分が自分の名になっていく#108

 

それは、ものごとをありのままにみて、純粋体験すること。

そうなると、毎日がとっても楽しみである。

2021年10月1日の日記より

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