時刻は23時50分。
今月から、新たに規夫さんと加藤さんから発達理論マスターコースにて、発達理論やインテグラル理論について学び始める。
その中で、改めて自分が
①そもそも発達理論にどうして興味があるのか?何に魅了されているのか?
②それらを通じて何を実現しようとしているのか?
この2つの問いを自分に向けてみたいと思う。
かつても同じようなことを何度か考えたり話したり、それこそジャーナルでも書いてきた。
網羅的に書けるかわからないが、改めて、今この瞬間このジャーナリングを通じて言語化してみたい。
CONTENTS
発達理論に魅了されたきっかけ
私が発達理論と出会ったのは、2017年頃だったように思う。
2015年からグロービスに通っていたことから、ハーバード・ビジネス・レビューを好んで読んでおり、ロバート・キーガンの特集で拝見した。
面白いことにこの当時はそこまで魅了されなかった。
そこから時を経て、魅了されるようになったのは、私がまさに実存的段階(自己認識だが)に入った時だった。
かなり脱線してしまうが、まずはこの頃の自分の状態を少し振り返ってから発達理論とインテグラル理論に話をつなげていきたい。
無職のときのことは、こちらの記事でも少し書いたが、
その時のことを、また別の角度でまとめてみたい。
経営からジョブレス(無職)を選んだ理由
2019年末を機に、無期限でジョブレス(無職)になった。
MBAをとり、4年間という短い期間ではあるもののベンチャー経営してきたが、わけあって会社を退任することになった。
このときジョブレスを選んだのは、生きる意味を失ったことにあった。
公務員を辞めることは相当の覚悟があったし、必死MBAを学び、自分で会社を経営して、会社は私のアイデンティティそのものであったし、私の生きる拠り所でもあった。
しかし、経営をはじめて4年目の頃から、徐々に様々な違和感や葛藤が増え、私は所詮、ビジネスでスケールやインパクトを出すという単一的なゲームの中で生きているに過ぎないのではないかという感覚に陥った。
もう一度、自分は改めて何のために生きるのだろうか?
これを再定義しなければ、これ以上働くことができなかった。
そこで、ジョブレスを選び、1年弱、哲学、心理学、歴史を中心にただただ本を読んでいた。
多くの心理学や幸福論や仏教がもたらしてくれたこと
この頃から、心理学、仏教や哲学の中でも幸福論にますますハマっていく。
そこでは、自分がこれまでどうしてビジネスでスケールやインパクトを出すことにこだわっていたのか、どのような恐怖があったのか、自分の無意識(シャドー)と呼ばれる領域にまで、カウンセラーやコーチの手助けを借りながら、向き合っていった。
そして、徐々に自分で自分を縛っていたものから解放されていき、生きやすさや幸福感を得ていった。
人生とは、走ることではなく、踊ること。
幸福は、もう既に十分あることということを、頭ではなく体感として知覚できはじめる。
実存主義哲学くれたギフト
そして、私に大きく影響を与えてくれたのが、実存主義の哲学であった。
実存主義の哲学は、サルトルから始まる。
当時の時代背景には産業革命という機会化されていく中で、人間は機会に代替されるものであり、交換可能な存在であることを突きつけられる時代であった。
すると、私という存在は何であり、何のために生きるのだろうか?
という問いが生まれ、実存主義の哲学が始まる。
その中でも、大きく影響を受けたのが、ヴィクトール・フランクルだった。
代表作「夜と霧」の「生きる意味」という章にこんな記述がある。
私たちが生きることから何を期待するかではなく、生きることが何を期待しているのか、が問題なのだ。
私は、ずっと何のために生きるのかと問いてきた。
しかし、その問いそのものが間違えであった。
人が人生の意味を問う必要はない。
人は人生から問われている存在であるから。
人は人生から意味を問われ、その問いに答える存在。
実存主義を通じて、私は、「意味を問う者から、問いに答えていく者」になった。
自分が実現しようとしていることに焦点が当たっていて、いつでも出発点が自分だった。
自分の欲求が満たされることを意味があるとするのではなく、人生からの求めを満たすことに意味を見出す。
自分を中心にして、人生を見るのではなく、人生を中心に自分をみる。
ここで、私はおそらく生まれてはじめて、大きく自己を超越した感覚を育むことになる。
天職というのは英語でcailingというが、まさに自分を超えた大きなものからの呼びかけに応えるのである。
そうすることで、自分のこれまでの経験すべてを肯定できる感覚を得た。
自分があのまま働き続けて、もしかしたら違和感を頂いたまま50〜70代で引退してはじめて気付くようなことを、自分は30歳というこのタイミングで、人生が教えてくれたのではないか。
そう思うと、今の経験も感謝の気持ちが芽生えた。
無職の価値:巨視的な視野や感覚を養う
しかし、そうはいっても、人生そのものに耳を澄ませるという感覚は非常に難しい。
今思えば、ジョアンナ・メイシーのワークは個人的におすすめだが、その当時は、これを養うために、自己の内面ではなく外面に、もっと社会、この世界のことに目を向けることが重要だと思って、さらに教養を広げることにした。
たとえば、ユヴァル・ノア・ハラリ、ジャレド・ダイアモンド、カール・マルクスなど、ここはあげればきりがない。
ここは、無職という期間がもたらしてくれた恩恵が大きかったと思う。
私が感じる無職の価値は2つ。
1つは、時間があること。
これは言うまでもない。
もう1つは、フラットかつダイレクトに社会と向き合うことができる。
経営していた頃は、それに必要な情報を得る引力がある。
事業上必要な知識、参入業界の動向、スタートアップ業界の動向など。
しかし、無職になると、一切それらがなく、まるまる社会を広くみることができた。
そうすると、時間軸でみたときに、21世紀がどういう時代であるのか。
空間軸では、地球がどう言う状態であり、日本がどういう状態であるのか。
そういったことが、まだまだ知らないことが多すぎるが、それでも自分なりに、「自分がなぜ21世紀に生まれてきたのか」という自分の人生そのものを感じ取る感覚が高まってきたように思う。
そして、Man in the Mirrorを創業して今に至る。
発達理論がもたらしてくれたギフト
随分脱線したが、ここで発達理論に話を戻したい。
この無職の頃、幅広い心理学書をあたっていく中で、再び発達理論と出会うことになる。
そこで、まさに「実存主義段階」という段階があり、自分が今陥っているのはまさにそれではないかと思った。
そして、発達理論に救われた感覚になった。
あ〜そうかと。これは私の問題なのではなく、人間が発達するために必要なことだったのかと。
そして、自分自身が次の発達に向けて、何が重要なのかという洞察も得ることができた。
同時に、他者に対してもより寛容になれるようになった。
その葛藤は、あなたの問題なのではなく、人として誰もが共通してもつ葛藤なのだと。
インテグラル理論がもたらしてくれたギフト
そして、無職のとき、インテグラル理論にも出会い、その瞬間魅了されるようになる。
それは、私はインテグラル理論から大きく2つのことをギフトとして受け取ったと思う。
(1)様々な心理学、哲学、宗教、思想、社会学を俯瞰して整理してくれたこと(メタ理論であること)
すでにコーチとして活動していたこともあり、対人支援にあたり、成人発達理論やインテグラル理論の位置づけを理解し、
こちらのジャーナルでも書いたが、
すでにコーチとして活動していたこともあり、自分の関心が
(A)自分のあり方を磨くこと
(B)たくさんのサイコセラピー使いこなすこと
にあった。
人間という存在を問うために、インテグラル理論は、心理学などを多面的にみて整理された洞察の深さが、(A)(B)に応えるために重要な補助線になると思った。
(2)内的変容から社会変容へ
もう1つは、内的変容から社会変容の結びつきをしてくれたこと。
成人発達理論は、あくまで人間の内的な変容しか書かれていなかった。
U理論であっても変容プロセスを表現してくれており、プロセスの理解や手法の理解には役立つが、どのような段階にいたるかは説明されていなかった。
それがインテグラル理論では、人だけでなく、組織や社会の段階が書かれてあり、人間の内的な成熟が、社会システムの成熟に繋がるということを教えてくれたことが大きかった。
ここに、私のポスト資本主義に向けて、内的変容という切り口から外的変容を促す役割を社会の中で担うことを、自身の人生の役割として芽生えさせてくれた。
発達理論やインテグラル理論の限界や盲点
しかし、発達理論やインテグラル理論が万能かといえば、当たり前だがそんなわけはない。
では、発達理論やインテグラル理論の固有の限界や盲点は何であるのか。
このあたりも押さえておくべき重要な問いになる。
が、今の私には、発達理論やインテグラル理論自体をまだまだ深く理解できていないがために、まだまだこのあたりは見えていない。
しかし、なんとなく大きな枠組みで捉えたときに、以下のようなことが言える。
(1)四象限の右上象限(個人の内面)にとどまる。
ウィルバーのいう四象限(個人と集団、内面と外面の2軸のマトリクス)でいうと、個人の内面にフォーカスがあたっている。
もちろんそれ以外の領域にも触れているし、その関連性にも触れているのだが、個人の内面にフォーカスが色濃い。
加藤さんより兼ねてから伺っている、3大メタ理論というものの、ウィルバーを除く、イギリス哲学者のロイ・バスカーの批判的実在論や、エドガー・モリンの複雑性思考に関する理論を学ぶとさらにこのあたりがつかめるのかもしれないが、私にはまだまだ難易度が高いのが正直なところ。
(2)個別性や発達プロセスの解明が弱い
それから、このあたりは、マスターコースの中で言及されていることではあるが、発達理論も、2000年代に入ってから複雑系科学との融合やテクノロジーを活用した研究に入ったとのこと。
数式を活用して、コンピューター上でシミュレーションを進めたり、AIを活用したり、より精緻になっている。
だが、どこまで個別性が担保されているかというとまだまだなのかもしれない。それはコーチとして、生身のセッションをしていて感じる部分でもある。
このこと自体は、発達理論の盲点や限界というより心理学やひいては科学そのものの限界とも言える。
(3)精緻な実践書ではない
対人支援における実践上の手法としても、発達理論やインテグラル理論はそこに役割を持っていないように思う。
そこはマーク・フォーマン先生を始めとして、インテグラルサイコセラピーが一定担ってくれている。
(4)発達することで救われるという前提
それからこれは毎回話題にあがることだが、発達することは善なのか幸福なのかというような論点。
これを前提にしてしまうことは危険になる。
このあたりは私自身がこれからさらに学んで理解していきたい。
まとめ
ここまで書いてみて、今思うことは、ものすごく抽象化すれば、どの学問にしても、自分の人生の意味付けを豊かにしてくれるきっかけをくれているものに思う。
だから発達理論やインテグラル理論固有のというとここまで書いたことであるが、かといってそれが人間の必須の教養かというと別にそうは思わない。
だが、発達理論くんやインテグラル理論くんは、固有にわたしたちの人生を豊かに意味づけてくれるきっかけを与えてくれるし、人間存在の本質を探求するには重要な存在に思う。
2021年11月1日の日記より