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日記「あじわい」

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自分の中にあるとあるビリーフ#339

時刻は23時。

今朝は素晴らしいセッションを受けさせていただいた。

少し残しておきたい。

立ち返るところ

自分は何なのだろうか。

何のために生きているのだろうか。

こういったことを時折考える。

立ち返るところは、「阿世賀淳」という名にかえる。

自分が立ち返るところは、自分と世界がとけてつながる感覚。#323

それは、感謝と敬意をもち、目の前のことに純粋に出会い楽しむ。

これに何ら違和感はない。

しかし、これだけではざわつきがある。

今もつ社会的な承認欲求はどこからきているのか

そのざわつきの1つは、社会的な承認欲求を求めている部分があり、それに少し反することが時折あるからだ。

だが、昔と違って今は、どちらかというと経済的な自由をより得るために、市場を生きる術として手に入れたいという感覚だ。

何か巨額の資産があるわけではない。

一定市場、資本主義の中で生きることを決めているため、このあたりの欲求は健全なものに思う。

自分の中にあるビリーフ(思い込み)

それから、ざわつきがあるのは、何か高尚な使命感が足りないと思ってしまっていること。

何か、自分の中で、「自分の心の赴くままにやると、誰かを傷つける」というビリーフが強くあるようだ。

ある種、人間の存在を「性悪説」と捉えている感じがある。

それゆえに、今の自分は閉ざされており、地球や未来に対して申し訳なく思うことが時折ある。もちろん、常にそんなことを思っているわけではない。

このビリーフ自体が、どのように作られてきたのか、いくつか思い当たることはある。

そしてこのビリーフがあるがゆえの影響(うまくいくことや、うまくいかないこと)も、いくつか思い当たる。

が、いずれにしても根深くありそうだ。

どのように歩むのか

改めて思うことは、このまま自分の立ち返るところで歩めばいいように思う。

社会貢献しているんです感は好きではない。

自分のためにしていることがそのまま社会貢献になっていることを大事にしたい。

もちろん簡単なことではない。その自分の中には閉じたものではなく、世界や未来とつながった、拡張された自分であることが前提にある。

だから、自己を拡張させることを強く希求している。

だが、こんなことは人間の発達そのものであり、希求して発達する側面と、その意志とは関係なく、むしろ手放して希求する側面もある。

このまま自然と、ゆっくり、ゆっくりと拡張していく。

ゆえに、このまま自分の立ち返りたいことを大事にして歩んでいければと思う。

2021年11月18日の日記より

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